約束

2020年8月。5日間に及ぶテクニカル専修講座の一日目を終えた深夜、家の電話が鳴った。
母の入院先の病院から危篤を伝える知らせを聞き、病院に駆けつけると、たった今旅立ったところだった。

「ご臨終です。」
ドラマで主治医が伝える言葉が妙に機械的に聞こえ、信じられないような思いで母の身体に触れてみる。

母の身体は、まだ生きているように暖かかった…。

これまで何度も、母の今際の時(いまわのとき)のことを想像し、その時が来るのを覚悟してきたが、最愛の肉親の死とは、こんなに穏やかで静かなものなのかと、自分の感覚に驚かされていた。

しばらく、母の温もりが無くなるまで触れて別れを惜しんでいる時のことだ。
どこからか、「あ~、やっと楽になった…。」という懐かしい母の声が聞こえてきた。

認知症で寝たきりになって数年。言葉を交わすこともままならなかった母が、元気な時の母に戻り、私の頭の中で話し始めたのだ。

肉体から離れたら、すぐにあの世に行ってしまうのかと思いきや、母は別れを惜しむように、そっと私の傍らに寄り添って、慰めてくれているようだった。
泣きながら私の意識は、身体から解放されて自由になった母の魂と対話をし続けた。

幼い頃、母が死んでしまうことが怖ろしかった。
大好きだった母は、優しいだけではなく、いろんな意味で私を厳しく育ててくれた存在でもあった。

誰しも「母と娘」という関係は、そう一筋縄にいくものではないだろう。大正生まれの母の「躾」と称した体罰や、兄弟間の不条理に対する怒りや悲しみは、歳と共に忘れてしまうものだと思っていたが、それらは、大人になってから蘇ってくるものなのだと思い知った。

母親への愛は、いつしか真逆の感情になり、母の所業(しょぎょう)を恨み、責める自分がいた。それに対し罪悪感を感じ、長い間、自分を責めて苦しんでいたのだった。

歳を取り、わがままになっていく母に我慢できなくなると、やがて「早く余命を全うして欲しい」と願っている自分に気づき、愕然とした。
母の死を体験したくない自分が引き寄せている現実なのかもしれないが、このまま見送ったら、さぞ臨終の際に後悔するだろうと思った。

そこから決心してこの数十年、幸いセラピーを学び、提供する中で得た経験を活かしながら、内なるインナーチャイルドの癒しと解放をやり続けた。

やがて、母とのシャドーワークを数えられないほど行っているうちに、いつしか、私は母を心から赦し、(私も母から赦され)愛することができるようになっていた。

赤ん坊のように寝たきりになり、私のことさえわからなくなった母を見舞うことが日課となり、楽しみとなっていたが、コロナのお陰で、その楽しみが数ヶ月断たれてしまった。

2020年5月の非常事態宣言が解かれて、ようやく逢えた時には、母は食も細くなり、弱ってしまっていた。

母の口に流動食を運びながら思った。
「そろそろだ」と覚悟する時だ。

私の贖罪が解かれたことに気づいたのは、母の死を恐れている自分に気づいた時だった。
最後の時が来ることを恐れている自分は、純粋に母が好きだったあの頃に戻ることができたのかもしれない。
ただ、母を喪失する恐れは、意識よりも体のほうが解っているらしい。

母の口へとスプーンを運ぶ手が震えている。
私は、母をちゃんと見送ることができるのだろうか…?
動揺する自分がいた。

しかし、今際の時(いまわのとき)は、心配していたような悲劇ではなかった。母がここに居て私を助けてくれていた。
思えば、霊の存在を生き生きと感じたのは、その時が初めてかもしれない。

閃(ひらめ)くようにそれに気づいたのは、生前、元気だった頃、母が口癖のように言ってた言葉を思い出してからだった。

「私が死んだら、あんた達を全力で守るからね」
そう、いつも私に言ってくれていたよね。
母は、あの約束をちゃんと果たしてくれたんだ…。

それが、気のせいでないことは、それからの時間が証明してくれるようだった。
母が亡くなったからというもの、何もかもがトントン拍子に運んでいったのだった。

7月に入った頃、入院していた母の容体が気になり、北軽井沢のアトリエで開催する予定だったテクニカル専修講座を、急遽、鎌倉のアトリエに変更して開催することに決めた。

「8月の猛暑の中、鎌倉でワークショップを開催できるのだろうか・・・」と不安もあった。しかし、母に見まもられるように、ワークショップを滞りなく終えることができた。

急な変更に誰一人クレームを言う人は居なかった。
心良く応じてくれた参加者の人達には心から感謝している。多分、鎌倉の海で行うテクニカル専修講座は、最初で最後だろうと思うけど、今でも終わった時のみんなの笑顔が目に浮かぶ。

鎌倉の8月の海…
私達、皆にとって、忘れられない夏になることだろう。

ワーク開催中にも関わらず、お葬式の準備など、全てつつがなく整い、満足するお別れをすることが叶ったことも奇蹟的だったし、綱渡りするようなスケジュールの中、お葬式の次の日に母の故郷の九州に行く仕事があり、遺骨を母の妹に引き合わせることが叶った。

不思議なことはまだまだあった。

あんなに意志の疎通ができなかった兄との和解があったことだ。
お葬式から四十九日法要、そして、納骨までの時間を通して、長い間、断絶していた兄妹の絆を取り戻し、家族が揃うことができたのは、母の計らいなのだろう。

こうして、母は死と共に、私が握りしめていたネガティブな種を持っていってくれた。誰かを赦すということが、こんなにも楽で解放的だということを、教えてくれたのだった。

喪中にはお正月を祝うことはないそうだが、そんなしきたりは気にせず、母の自慢の手料理だったお節料理を作り、母と共に頂くことにした。
身体の不自由さがなくなった母は、私の作る料理に舌鼓(したつづみ)をうち、大好きだったお正月を家族みんなで賑やかに過ごすことができた。

賑やかなことが好きだった母は、とてもうれしそうだった。

あろうことか、死を境に母のスピリットを身近に感じ、寂しかった私の心が安らぎはじめている…。

母は、この地球で私と出会い、次の世界で再会を約束して去っていった。
最後に父と再会する時のために、一番好きだった
紫色の着物を着て。

母は、見えないものを信じる大切さを教えてくれた。愛することだけでなく、憎むことも教えてくれた。

それは、タオの愛だった。

ママ。本当の愛を教えてくれてありがとう。
愛しています。

エリ

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