夏の奇蹟

いつの頃からか、夏は自分の何かと対峙する時間となっていました。
今年の夏は、自分らしからぬ身体と向き合い、空っぽの心は居場所を探して彷徨っているみたいに…。

空っぽというと、何か虚しいイメージがありますが、心は穏やかで、静かでそれでいて強く、何かとてもニュートラルな感じがしていたので(カラダが騒がしかったので、ココロはおとなしくしていたのか)不思議と気持は楽でした。

肩と腕の痛みが酷く、その痛みを抑えるために飲み始めた薬への副作用なのか、蕁麻疹が全身に出始めました。気持とうらはらに、カラダは、敢えてカタカナのカラダと呼ぶにふさわしいぐらい、バランスを崩し、自分の一部と認めるにはよそよそしいものになり変わっていました。
本来鈍感な私は、それらを典型的な更年期の症状なのだと高をくくっていたのです。

表現アートセラピー画像2死に至る疾患ではないので、気持は気楽ですが、そうは言っても、やはり痛みや痒みはそれなりに苦しく、ワークが集中する夏の時期、さすがに私の気力も底をつくありさまでした。

「こんな身体、無くなっても良いなあ…」などと、不謹慎なことを考えるほど一時期は気持もネガティブになった頃、ふと<カラダ>を受け入れてみようという考えが涌いてきたのです。
そして、症状を抑えるためにのんでいた副作用のある薬をゴミ箱に全部すてると、なにか自分の中でふっきれて、正面からこのカラダを受け入れる覚悟ができはじめました。

「カラダは何を言っているんだろう?」

真夜中に赤く腫れる皮膚は、まるで夜泣く赤子のようだったし、自分のカラダを支えられない無力な手は自由を失った老人のようでした。
それでいて、私の精神が成熟した大人の冷静さを保っていたことは幸いでした。
何日も眠れない日を過ごしながら、不思議とワークの中では疲れや痛みを忘れることができました。

表現アートセラピー画像3今年もいつものように、リリースワークのマインド・デトックスのワークを提供しながら、「この痛みを解放できないものだろうか?」と思いはじめました。
人に施すことができるけれど、いつも自分の事は後回しになってしまうものです。まるで、母がいつも「待っていなさい」「後でね」と幼かった自分を待たせていたみたいに…。

夏のマインド・デトックスワークショップの中で、自分自身も解放のテクニックを使ってみることにしました。(何故こんなになるまで、この痛みを解放することを思いつかなかったのか、不思議なのですが…)

解放の手順に従い痛みの由来を聞いてみると、幼い時の恐れと怒りに震えていた被害者の自分の姿を表していました。

もうすっかり忘れ果て、感情など微塵も残っていなかったのに…。

何度もワークで扱ったつもりでいたけれど、ただ思い出しては打ち消していたことなのかもしれません。
私の深い所では、終わってはいなかったのでしょう。

表現アートセラピー画像4デトックスの最終日、願いをこめて安らぐ身体を心の中に描きました。そのイメージは、私が創造のプロセスを刻みはじめたことを、カラダの反応を通して、ありありと知らせてくれたのです。

マインド・デトックスの<インプット>のステップを終えると、気のせいかもしれませんが、あの慣れ親しんだ「痛み」が遠ざかっていました。

夏のワークを終えたあとすぐに、インドへの旅を控えていたこともあり、実際に体調への不安は深刻な課題だったのですが、問題児だったカラダはその時を境に、奇蹟的に快方に向かっていきました。
ほんの数日前まで、手を持ち上げることもできないほど衰えていた肩や、眠れないほどの痒みも不思議に潮が引くように回復し、一人荷物を抱え旅立つことができたことは、私にとって夏の奇蹟のはじまりでした。