本当の自分〜タオをさがして
「男として生まれていたら雲水になりたかった」(※雲水〜禅の修行僧)そんなことを私がつぶやいていたと、何年かぶりに逢った人が思い出話をするのを聞き、びっくりしてしまいました。そんなことを言った記憶もないばかりか、今の私にしてみれば、考えもつかない発想だったからです。
しかしふと、その昔、初冬の永平寺に出かけ、修行する雲水達に心酔していた頃のことを思い出しました。
まだ、20代だった私は禅の真髄など解らずに(今も解りませんが)、その凛とした清々しい姿に憧れただけなのだと思います。仏門に入るには男女の如何は問われませんが、尼僧になりたかったわけではないので、多分彼等(雲水)のその姿に感銘を受けていただけなのだと今は思えます。
その後、スピリチュアルブームがやって来て、今では精神世界や禅や、心理学も専門家でなくても理解しやすいように、あらゆる書籍やセミナー、体験会などが溢れ、それほど怪しくも、難しくもない世界として捉えられるようになりました。それでも、天使や宇宙人に眉をひそめる人は依然として少なくないようです。(笑)
天使や宇宙人など非科学的なものを否定する人達にとっては、現実とは目に見えるもの(物質的なもの)に限られるのでしょう。しかし、何かを否定することは、全体性を見失ってしまう断片化の状態に陥ってしまうことは否めないことも確かです。
天使や宇宙人の真偽はさておき、私はスピリチュアルとはまた別の位置づけとして、禅やタオのことを自分なりに追い求めていました。それは、つまり在るがままの自分では事足りず、人生の荒波を生き伸びるための方策や答えである「真理」があるなら知りたいと思ったからかもしれません。
在るがままの自分を否定する自分はやがて偽りの自分を生きることになるのですが、今スピリチュアルな世界では、「本当の自分を生きる」ことを強く提言しています。
禅やタオで云えば、「在るがまま」の自分。 在るがままを否定して、遠征した後にまた元の場所に戻ってきてしまった感があり、エゴとしては拍子抜けです。
難しい定義や、厳しい修行を抜きにして、その真髄とは理解するかしないかは別に、真理は追わなくても求めなくても何処かに探しにいかなくても、内なる世界に存在するものなのだ…、という一つの思いに駆られて今まで生きてきたような気がします。
真理とは、何処か遠くに在る物ではなく、身近にあるものらしい、とその手の本には良く書かれていますが、なかなか人間は、そう思えないというか、そう思いたくないのでしょう。
真理や真髄とは、苦労して探すものだという認識が拡がっているから、これほどの知識や情報が生まれてきたのかもしれません。
それ(真髄)は、「気づき」によってもたらされるのだと、私は信じているところがあります。
それを、どこかの本や人の言葉に探してしまうと、自分の血や肉になって行かない気がするからです。
しかし、その「気づき」は、気づこうと思っても気づけません。気づきは意図して現れては来ないから…。
それでも、何も問わなければ、気づきはやって来ないと知り、トボトボと日常を歩き始めた時、気づきはいろんな所で待っていてくれることに気づきました。
昨年の夏、ペルーから帰ってきてすぐに体験したタオのワークショップから1年が経ち、今年もまた同じタオというテーマを更に掘り下げてみたくなりました。
タオは、考えれば考えるほど、理解しようとすればするほど、手の中から理解の外へとすり抜けていくような素材です。
それでも、このテーマが好きだったのは、やはりタオは自分自身、人間そのもの、存在そのもの、宇宙そのものだと理由もなく感じたからなのです。
私たちは生きていると、日々何かに捕らわれ、悩み、一喜一憂する毎日を過ごしています。
そんな中、「本当の自分を生きる」とか、「自分らしく生きる」ことは希望や夢でもあり、前に進もうとする自分の前に立ちはだかる障害物のようにも見えてくるのです。
誰もが、そんな障害を避けるように、何かを追い求め、何かから身を護り、または逃げるために日々悪戦苦闘しているようにも見えます。(私も、もれなくそいうやって生きている一人です!)
今回のタオのテーマは光と闇。自分という自己概念を形成する要素でもあるコンプレックス(劣等感)と、プライド(優越感)という両極にある要素を探りながら、本当の自分とは何かを見つけに行くというワーク内容でした。これは、とても面白いテーマだったと思います。
劣等意識と優越意識〜私達はこの両極の意識を無意識の中に隠し持っていることから、常に経験をあらゆる物と比較して自分の価値を定める判断を下していることに気づきません。この劣等性が存在するという思考の由縁は、彼の物理学者D・ボームは次のように語っています。
「異なる習慣を持っている人間は劣等であるという思考は、その持ち主をしてそのような人々を劣等だと<見なす>ようにさせ、また彼等の劣等性にふさわしい仕方で彼等を扱うための動機づけを感じるようにさせます。
人がこの種の混乱した反応に陥りがちになるのは、思考の内容とその機能が単一の間断のない流れであることを見損なうからです。」デビッド・ボーム著『創造性について』(コスモスライブラリー刊)
思考の断片化とは、すべての物事は決めつけられる既成の意味などないのに、社会の枠組みの中で意志の疎通をするために便利なことから生まれた名前や意味、動機付け(観念)のことを指しています。
それらは、個人と個人の意志の疎通を助けるために生まれましたが、結局は個々を隔てる壁にもなってしまったわけです。
しかし、可笑しなもので、この劣等意識も優越意識も比べるものが無くては存在できません。
他者という異分子と自己を比較し、排除するためには、比較する対象が無くては成り立ちません。
自分の中にあるプライドは比較する誰かを必要とし、同時に自信を失わせている劣等意識も、同時に誰かを必要としています。そのどちらも自分の中にあるコインの裏表に別れた断片化した思考に過ぎないのです。
このような要素を自分の中に見つけることで、私達が如何に在るがままでないことに気づきはじめます。
そうして、その観念から生まれた思考や感情に悩まされ人生を生きていることを振り返ると、その無意味さに改めて気づくのです。
結局、プライドもコンプレックスも、それらが生まれる起源は単なる生存への怖れ(エゴの怖れ)だったことに気づかされます。気づいた後、自分がどのような思考や振る舞いを選択するのかは、私達の意志にかかっています。
タオはどこか遠くにある概念ではなく、こんな形で自分の世界に在ることを知らせてくれているのです。
タオという非二元(善悪という二元性を越えた世界観)の象徴に触れるたび、形のない空の世界を往ったり来たりする遊び、ゲームを楽しむような気がするのです。掴みきれない歯がゆさや、もどかしさ、苛立ちや抵抗感など、モヤモヤした感覚は未だに慣れることはないのですが、それでも、タオへの興味は尽きません。
そんな所在無いテーマを掘り下げるうち、私達は内なる宇宙の果てを体験するような気分になっていました。
今年のタオは、まさに限界を超えて、宇宙を一周し我が家に帰ってきたような、ミラクルな体験でした。タオに触れようとすれば、タオは逃げて行きます。しかし、その渦中で沢山の気づきがやってくるのです。
ワークショップに参加してくれたすべての人がそれぞれの体験の中で、沢山の気づきを持ち帰ってくれたことが、私にとっての大きな収穫であり、うれしい出来事でした。
こんな感じで、今の私は常に自分の興味にあるテーマを掘り下げながら地中の作物(ワークのネタ)を収穫しているわけです。そのために常に「今、ここ」にある意識とランデブーしながら過ごすことを楽しんでいます。
時には、楽しのを通り越して、苦しさや怖れとも出会いますが、それこそ闇を統合する絶好の機会です。
都会の喧噪から離れ、インターネットやテレビもろくに見ずにひたすら内面で起こっていることに夢中になったり、ただ運動し、掃除をして、本を読み、思いを綴り、自然の中の土や草に触れ、木々や内なる源と対話する自分のことを振り返って見ると、ふと面白いことに気づきました。
「ああ、これはまるで修行僧のような生活だなあ…」と。畑から戻る道の途中でそう思った瞬間、あの真剣な雲水達には申し訳ない妄想だったと気がつき、独りで笑っているのです。
次回は、この断片化され分離した意識が集まった世界(社会)の中で、どのように本当の自分を取り戻し、社会の中で安心して生きて行くか? その答えは内なる分離した断片を統合するためのファシリテーションの可能性について考えてみたいと思います。