参加者の声【インナーチャイルドWS in 北軽 2019 vol.1 】 「見る」ことのパワフルさ

今回のワーク中、「光の福音書」と「闇の経典」を創作した。
あれからちまちまと絵を描き、詩を書いては、続きをやっている。
絵を描くと、言葉がうまれる。
孤独を愛する寂しがり屋、という印象を私は抱く武者小路実篤、
彼もこのような心持ちだったろうか。
「大してうまくもないが、喜んで受け取ってくれる人が多いものだから」
と数多くの詩画(しいが)を残したと何かで聞いた。

武者小路実篤の名を初めて知ったのは小学四年生の時だったか。
学校の図書室にあった日本名作全集がずらっと並ぶ書架で、一際心を惹かれた「武者」の文字。
「甲冑に身を固めた坂東武者達が息を潜めている小路…カシャカシャと鎧のぶつかる音まで聞こえてきそう。そんな名前を苗字に持つこの人はどんな人だろう?と思って借りたの!」
瞳を輝かせて父に話すと、
「そうか。彼はお公家さんの出なんだよ、だから珍しい苗字なのかもしれないね」
と答え、しばらく二階の書斎に姿を消した。
そして嬉々として降りてきたその手には日に焼けた「愛欲・その妹」の文庫本。
父の精神的支柱領域と私の領域の合致が殊更嬉しかったのだと思う。
その気持ちを裏切りたくなくて一応読了はした筈だが、難解だった記憶しかない。
そして、私が上京した時に持たせた数冊の本の中にこの本があった。
(その後一度も開いてません、お父さんごめんなさい)

私が氏の事に思い巡らす時いつも浮かぶのは、先の名作全集で呼んだエピソード。
蛇の目(傘)にお姉さんと二人で入ってしゃがんでも尚雨に濡れぬゆとりがあった幼き頃の話として、
こどもの電車賃は大人より幾らか安い。ご母堂は氏と連れ立って出かけた日、小柄な実篤少年なら一、二歳偽っても問題ないだろうと、節約の為年齢を偽って申告し、こども料金で乗車しようとした。しかしその歳にしては発育が過ぎているのではと駅員に見抜かれそうになり、答に窮したご母堂が「実篤ちゃんの口から歳をお言い」と偽りの年齢を言う事を暗に促した。
しかし実篤少年は実年齢を言い、頑として譲らず、結局おとな料金での乗車となった。
車中ご母堂は顔を真っ赤にしておられ、氏は何度も顔をこっそり覗き込んだが叱られる事はなく、降車後、(名家の子女らしく)何事も無かったのように優しいご母堂に戻られたのを見て安心した。今思えば偽りの年齢を言う事等容易い事で、そうしていれば母に恥をかかせずに済んだのにと悔やまれる、という内容。
このエピソードを読んだ時、この一点で氏への印象が決定的になったと言えるかもしれない。
「わかる、私の気持ちを代弁してくれる人だ」と。

アンケートを書こうと逡巡し、特にテーマも決められないまま散文を綴った後、分離一体について意識を向けた時、
両親が期待した私の姿から現状が遥か遠く離れていても、「どうってことない」かもしれないという気持ちが湧いた。
「両親には両親の思いがあるし、私は私でありたいと思う。それだけなのでは」と思ったら、あれだけ渇望していた「理解されたい」という欲求が、指の隙間からするりと抜けていくような、実にあっさりとした一瞬の出来事。
だからといって渇きは未だ癒えておらぬと存在を主張している。しかし、見る(意識を向ける)だけで、渇望が影を潜めるのだ。
今回のワークで「見る」事のパワフルさを改めて感じた。
主の不在をなじる飼い猫らも、「見て」欲しいだけなのだった。
視線を感じる。視線に応える。満足して立ち去る。
彼らはチャイルドそのものなのだ。
自分が何故猫が好きなのか、理由に一つ行き当たった気がした。

そしてこれは毎回思う事だが、それにしてもプログラムの構成の巧みさ。
一つ一つに仕掛けがあり、それらが効果的に発動するように配置され全て繋がった時、
いつの間にかノートルダム大聖堂のステンドグラスのような壮大なタペストリーに仕上がっていた事に圧倒される。
上質なミステリーを読むような、ファンタジーを読むような。気付いた時にはもう手遅れ、これはもう虜になってしまう。

数年前浮かんだ詩の一説「頭(こうべ)を垂れて参られよ、黎明の門」は単に神殿の門を潜る行為を詠んだという認識だった。その実、自らの神殿である肉体という門を潜り、赦しを(もっと言うと魂の救済を)与えるコンポステーラ(神聖なる存在(聖ヤコブ)所縁の地への巡礼)がやっと始まったという事なのかもしれない、そう感じる自分を赦そうと思う。それを表現する自分も。

おわり


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