昔読んで「退屈だ」と思った本を、ある時開いてみたら、興味深いことが書かれていたという経験はありませんか?
それは、自分が変化し多角的な視点を持ったことで、理解力が深まったという成長の証です。
昔読んで戸棚にしまった本をもう一度手にし、つまみ読みしてみませんか?
あらためて、その本の言わんとすることが理解できるようになっている自分に気づくかもしれません。
昔読んで「退屈だ」と思った本を、ある時開いてみたら、興味深いことが書かれていたという経験はありませんか?
それは、自分が変化し多角的な視点を持ったことで、理解力が深まったという成長の証です。
昔読んで戸棚にしまった本をもう一度手にし、つまみ読みしてみませんか?
あらためて、その本の言わんとすることが理解できるようになっている自分に気づくかもしれません。
エゴとしてこの現実世界(幻想なのですが)で、組んず解れつ、悩み気づいていくことは、人間の醍醐味かもしれません。
ただ、あまりに現実が厳しく感じられ、そこから逃げ出したくなったら、少し休んでください。
休むとは、寝ることではなく、「意識的になる」ということです。
深刻なドラマを観るのが疲れたら、途中にコマーシャルを見るぐらいの気楽さでいいのです。
生きている限り、エゴのレベルから100%分離・達観することは容易なことではないかもしれません。
しかし、方法は沢山あります。
継続して達観することは、つまり悟りと呼ばれるものですが、人類はこの悟りを渇望しつづけてきた歴史があります。
悟りとは、渇望し修行して手に入れるものではなく、ただ思考や自動的な行動パターンを一旦やめて、今ここで起きていることを観察する時間を増やしていくことなのです。
その方法は自分の好むスタイルでやってみると継続しやすいでしょう。
私達は、しばしばエゴを悪者に仕立て上げてしまいます。
そうやって、エゴを否定すると、エゴの制限にますます影響を受けてしまうことになります。
一方「自分の本質が宇宙の源と同調している」と信じれば、エゴは単なる意識の「遊び道具」となります。
「遊び道具」は悪者と決まっているわけではありません。
よりよく生きるということは、この道具を正しく使うということなのです。
好ましくない状況や相手に対し抵抗感を募らせるのは、自己の外側に対して行っているようでいて、すべてが自分の中で起こっている抵抗に過ぎません。
人間関係や現実に葛藤や抵抗が起こるのは、自分の中の「ある部分」と「ある部分」とのぶつかり合いが原因なのです。
誰かや何かと葛藤したり、ぶつかったりしたくない場合は、まず自分の中の対立を探してみることが近道です。
「焦って何か役に立ちますか?」
焦って成長する必要がどこにあるのでしょう?
それよりも、楽しんで成長したほうが良いのではありませんか?
急いだところで、プロセスをはしょれるわけはありません。
物語は、順を追って読んでいかないと面白くないのと同じ。
されど、せっかちな人にとっては、難しい質問なのかもしれません。