誰かの心配をするのは、親切なことのように見えます。
しかし、相手のことを心配して(あげて)いるようでいて、その人は自分のことを心配しているのです。その人が困ったり、悩むのを見るのが嫌なので、あれこれコントロール欲求が働いているのでしょう。
それは、相手の為では無く、自分のためなのだとしたら、相手に「心配をしてあげた」とか、「心配をかけないで欲しい」とか言えません。心配は、する人が勝手に(好き好んで)やっていることです。
誰かの心配をするのは、親切なことのように見えます。
しかし、相手のことを心配して(あげて)いるようでいて、その人は自分のことを心配しているのです。その人が困ったり、悩むのを見るのが嫌なので、あれこれコントロール欲求が働いているのでしょう。
それは、相手の為では無く、自分のためなのだとしたら、相手に「心配をしてあげた」とか、「心配をかけないで欲しい」とか言えません。心配は、する人が勝手に(好き好んで)やっていることです。
人のことを心配したり、批判したりするのは時間の無駄です。もちろん、自分のことを心配したり、批判するのも生産性がありません。
もっと有意義で、役立つ時間の使い方を考えるほうが効率が良いでしょう。
しかし、効率が良いことや、生産性があることが、良いというわけでもありません。心配することが好きな人にとっては、有意義なことですから。
楽になるための秘訣は、エゴと距離を置くことです。
そのために、瞑想は役立ちます。瞑想とは、エゴとの決別を意味します。あ…、意味づけるのはエゴの得意技でしたっけ…。
エゴは、ネガティブな出来事や、感情を好みます。自分の活躍できるチャンスだから。
自分を被害者に祀りたてて、相手を責めたり、自分の落ち度を責め立てたり、運命を呪ったり…。
しかし、それはすべてエゴというマインドのやっていることであって、事実ではありません。
世界があなたを責めているわけでも、誰か犯人がいるわけでもないのです。ただ、あなたのエゴが騒いでいるだけなんです。(自分の出番を獲得するために…)
指に棘が刺さって痛むとき。
その痛みが気になり、やがてあなたは、指そのものになってしまうでしょう。心に棘が刺さったときも、同じです。あなたは、その痛み(ネガティブな感情)に取り憑かれて、他の事に意識が向けられなくなるでしょう。
しかし、他の健康な身体の部位は、失われずに存在しています。意識を別の部位に移す余裕さえあれば、指の痛みは軽減するのです。
心も同じこと。もしも、あなたが何かに悩む時。暗い気持ちになる時、なんでもない他の出来事や、希望について意識を少しだけでも向けてみてください。
心の棘の痛みが少なくなりますから。
顕在意識(デスクトップ)で忘れたしまったことも、潜在意識(ハードディスク)の中に残っています。
潜在意識が創り出す現実が気に入らないとしたら、気に入らないプログラムが誤作動しているかもしれない…と、疑ってみてください。