229

愛を求めてスピリチュアルなコミュニティに行っても、気に入らない人や、自分から見るとネガティブに見える人はいるものです。(そんな時、たぶん相手から見たら自分もネガティブに見えるのかもしれません。)

どんなにスピリチュアルなことが好きでも、自分がポジティブな人間だと思っていても、愛を信じる人であっても…、ネガティブな態度の人や、好ましくない人や状況に抵抗を感じたりするのであれば、まだ自分の中に処理したい課題があるということです。

心に平和をもたらしたかったら、何にも抵抗しない(抵抗をしたらすぐに手放せばいいのです)態度を定着させることが真にスピリチュアルになるということかもしれません。

228

すべての人は成長し拡大するエネルギーを以て生まれて来ました。放っておいても、成長するようになっているのです。だから素直な心はこの成長を助けます。素直さは理想や憧れを自分に持たせます。 理想や憧れは成長を助けます。
それが無い場合は、自分の願望や欲求に教えを請いましょう。(欲求が無い人などいませんから)自分が向かって行く先が解れば、自分の持てるエネルギーの使い方が解ります。人は誰もが皆パワーを持っています。それは自分でも気づかないぐらい強いエネルギーです。

それをうまく作用させないと、エネルギーは内面でくすぶり、いつしか自分を滞らせるエネルギーに変換されてしまいます。その抑圧のエネルギーは「鬱」という心の病に例えられます。自分を滞らせているのは、他でもない自分のエネルギーだけなのです。

227

問いや考え、意見は一つの定義から生まれます。
例えば、人間は生きている」と定義するので「なぜ生きるのか?」「死んだらどうなるのか?」という問いが生まれるように。もしも、この定義が変わり、「人も物も宇宙も存在のすべてはエネルギーである」という定義からスタートしたら、死も生についても別の考え方へと発展します。
つまり、「すべては何を定義するか?」なのですが、定義するもので、意見が異なり、議論が生まれます。
定義は先にしたもの勝ちというわけではありません。違った定義や意見が出てきたら、それはただ違った対極の世界が現れたという印です。

議論にうんざりしたり、考えることに疲れたたりしたら、その意見が派生した定義が好ましいかという振り出しに戻ることを薦めます。

226

いかなる正論も、正義も存在しません。絶対なる考えや信仰も無いのです。そこにあるのは、対極を認めない頑固さだけです。そもそも、自分と相手という対極の世界に生きているのに、どうして自分の意見や考えだけが正しいと言えるのでしょうか?または、その考えに至る前に、異なる考えをしていたのではありませんか?
だとしたら、別の人が別の意見を持っていたとしても不思議ではありません。別の意見が存在する猶予を与えても良いのではありませんか?

225

焦ったら、そんな時こそ「今、ここ」に集中してください。焦りとは、今、ここで出来ないことにフォーカスしている状態です。今できる事に集中し、ベストの力を使っていれば、焦る暇はありません。浮き足だったり、焦燥感に囚われた時は、自分が今にいないことを思い出してみましょう。

そして、声に出して自分に聞いてみてください。

「今、出来ることは何?」
「今、心からやりたいと思うことは何?」

もしも、自分の中から答えが涌いて来たら、それをやってください。

その時、自分の内側から「それは出来ない…」という否定的な声が聞こえたら、その声の主と少し対話する必要がありそうですが…。

224

反省というのは、自己批判とは違います。自分の態度や考えを観察し、より成長させるための機会です。
人は、反省をしないで自己批判をしてしまう傾向がありますが、自己批判は成長を促しません。
反省は、自分のエネルギーの使い方の問題に気づくための「自分観察」です。反省という言葉を、自分を否定するという意味に捉えている人は、ただ自分の行動を観察するという意味に変えてみましょう。
そして、内省とは、自分の内面の状態を観察するということです。

どちらも「今、ここ」に在る自分の状態を見極め、正しい方向に変化させていけるアクションなのだということを理解してください。