誰かに期待し、頼ることは、相手に「軸」を渡してしまうようなものです。相手が心よく自分の期待に応えてくれたり、安心して頼ることが出来たら気分は良いですが、一方でその関係が崩れないように見張ったり、心配したりする必要性を感じることも生まれます。
軸が自分ではなく他者にあるから気が気じゃありません。その関係には、「信頼」というレッテルが貼られていたりしますが、それは相手が期待を裏切らないという条件付きの関係です。
そんな不自由な関係をあなたは望んでいるのでしょうか?
誰かに期待し、頼ることは、相手に「軸」を渡してしまうようなものです。相手が心よく自分の期待に応えてくれたり、安心して頼ることが出来たら気分は良いですが、一方でその関係が崩れないように見張ったり、心配したりする必要性を感じることも生まれます。
軸が自分ではなく他者にあるから気が気じゃありません。その関係には、「信頼」というレッテルが貼られていたりしますが、それは相手が期待を裏切らないという条件付きの関係です。
そんな不自由な関係をあなたは望んでいるのでしょうか?
こう言ってはなんですが…、哲学とは、答えが無い問いを考え続けるようなものなのかもしれません。生きることや、魂や神そして真理を言語的に理解することには限界があります。なぜなら、言葉はそれそのものが制限されたものだからです。
真理とはすべてを含むものであり、同時に無そのものです。すべては矛盾で出来ています。盾も矛もどちらも有功です。そしてどちらも無効なのです。何かを定義すると、何かが定義されなくなります。それが真理であり、真理とは呼べないものなのかもしれません。
成長(変化)したいのなら、自分の見方(視点)を変えることです。そして、考え方を変化させ、行動を変えてください。環境を変えても、つきあう人を変えても、読む本を変えても、目を見張るような変化は起こりません。なぜなら、自分は変わらないのですから。
気づくと、いつも同じような事ばかり、考え込んでいたり、思い悩んでいませんか?それは、いつも同じ見方(捉え方)をしてしまうからです。それが、思考パターン(観念体系)です。同じ思い込みをもったまま、成長することはできません。
変わりたくても、変われない自分を責めるのも、お決まりのパターンでしょう?もうそのネガティブスパイラルから抜け出しませんか?
そのためにどうしたらいいか?と悩まないでください。まず、階段を下りるのを止めることです。成長したい…ではなく、成長しよう(上向きになろう)と決断することからはじめてください。
成長を拒み、いつもの自分を経験し続けるということは、何ごとからも気づくことを拒み、同じパターンを繰り返すことです。それは、変化を怖れ、安心を求め続ける態度です。その態度は、とても退屈ですが、退屈であることを気づきたくないので、様々なところに出かけては、気を紛らわしたくなります。
つまり、退屈が苦痛なのです。
しかし、何を観ても、体験しても、自分は変わりません。なぜなら、成長(変化)を拒んでいるのですから。成長とは、何をしていても、何所にいても気づきがもたらされ、ワクワクと退屈しない自分を経験することです。
なぜなら、同じ風景が『気づき』がもたらされることで、まったく違う世界に見えるからなのです。
成長とは、変化を経験するということです。エゴにとって、変化は危険で怖ろしいことと、捉えられることがありますが、変化を怖れ成長を拒むと、退屈というネガティビティに出会います。
退屈することを、日々の変わらない出来事と捉えてしまうと、これは大きな間違いです。日常を楽しむ方法は沢山あります。
そして、その中から学び、成長するということは、何気ない事柄に驚いたり、新たな気づきを得るということです。
成長すると、意識は別の次元を経験するように意識のレベルが上がります。登ってみたら、見えてくる景色が変わるように、成長すると経験する事が変化します。
これまで問題では無かったことが、問題として見えてくることも…。
つまり、成長すると、新たな問題にぶつかるという経験をします。皆、成長しても、問題が減らないように見えるのは、そのせいです。
ネガティブに解釈する人は、頑張ってもゴールが無いような気がしたり、自分はきっと成長できていないのだと、思い込み落ち込みます。ただ、景色が違っているだけなのですけどね。