私達は、しばしばエゴを悪者に仕立て上げてしまいます。
そうやって、エゴを否定すると、エゴの制限にますます影響を受けてしまうことになります。
一方「自分の本質が宇宙の源と同調している」と信じれば、エゴは単なる意識の「遊び道具」となります。
「遊び道具」は悪者と決まっているわけではありません。
よりよく生きるということは、この道具を正しく使うということなのです。
私達は、しばしばエゴを悪者に仕立て上げてしまいます。
そうやって、エゴを否定すると、エゴの制限にますます影響を受けてしまうことになります。
一方「自分の本質が宇宙の源と同調している」と信じれば、エゴは単なる意識の「遊び道具」となります。
「遊び道具」は悪者と決まっているわけではありません。
よりよく生きるということは、この道具を正しく使うということなのです。
好ましくない状況や相手に対し抵抗感を募らせるのは、自己の外側に対して行っているようでいて、すべてが自分の中で起こっている抵抗に過ぎません。
人間関係や現実に葛藤や抵抗が起こるのは、自分の中の「ある部分」と「ある部分」とのぶつかり合いが原因なのです。
誰かや何かと葛藤したり、ぶつかったりしたくない場合は、まず自分の中の対立を探してみることが近道です。
「焦って何か役に立ちますか?」
焦って成長する必要がどこにあるのでしょう?
それよりも、楽しんで成長したほうが良いのではありませんか?
急いだところで、プロセスをはしょれるわけはありません。
物語は、順を追って読んでいかないと面白くないのと同じ。
されど、せっかちな人にとっては、難しい質問なのかもしれません。
自分の行動を一つ一つを肯定しながら生きることが、自分の本質に近づくための近道となります。
誰もが深層意識の中で、その本質について記憶していますが、表層の意識は自分の本質とはかけ離れたところで、自分の在り方を疑い試行錯誤しているのです。
そうした違和感は、自分ではない何かを経験している証拠であり、それはつまり自分を見失うという行為を通して、改めて自分を見つけるという経験ができるというような機会でもあります。
要するに「何をすべきか?」ではなく「自分が意識をどんな状態(肯定的または否定的な状態)に置くか?」なのです。
自分が選択した状態で行動によって、体験する経験が変わります。経験している事が不愉快であれば、そこに至る自分の動機が、不安や心配であることに気づくでしょう。
多くの人が、驚くほど「心配」や「疑い」から思考を始めているのです。
そんな人達の一番の関心事は「安心すること」だったりします。
人との関係の中で、意見の相違が生じても、自分の中に葛藤がなければ、罪悪感を感じないで過ごすことができるでしょう。
多くの人は、相手の期待に応えられないことに、後ろめたさを感じることが多いようです。たとえそれが、理不尽な期待であっても。
自分が本当に納得して選択したことが相手との葛藤を生むとしたら、疑うのは、その相手との関係性のほうかもしれません。