毎回それぞれに特別だったなと感じるワークショップだけど、この3日間はより特別な体験になったなと、何度もこの日のことを思い返しています。
チームビルディングの過程でワークを作ることになった時、私たちのチームは、それぞれの方法で、それぞれの言い分で、話し合いの場にコミットする責任から逃げていて、それを優しさであるかのように誤魔化していた。
私はその場をコントロールしてしまうのは嫌だったし、それでいてフロントに立つことも本当は怖かった。自分を開示することはできるけど、なかなか深まらない話し合いに「正直、やりづらいな」という感覚を抱いていた。
まさにこの「正直、やりづらいな」という感覚が、私が私ではない外側に原因を見出していることの表れで、自分の傲慢、臆病、自己欺瞞を浮き彫りにしていた。
そして面白いことに、「私の中でメンバーにしたくない自分の要素(傲慢、臆病、自己欺瞞)」を、私はチームのメンバーの中に投影して、彼女達をジャッヂしていたのだった(という事に最終日に気づいた)。目の前の彼女達は、私そのものだったのに、その事に気づくのか遅くて、私たちは結局分離したままだった。
そんな私たちなりに一生懸命に話し合いをギリギリまでしてワークを考えたけれど、私は内心「これじゃないかも」という違和感も感じていた。
そしてそれをスルーしようとしたとき、口の中で砂を噛むような不快感が駆け巡った。
巡ったのは、「時間もないし、いつものメンバーじゃないし、そもそも私にあそこまでできないんだから、今日やれる事をやったら良いじゃないか」という考え。
ちょっと間違ったら前向きにも聞こえそうな傲慢なこの台詞の中で浮き彫りになった「私にあそこまでできない」という枕詞は、エリさんとサポートの人たちを含むアトリエワイエスの在り方そのものにかかっていた言葉だった。
そしてこの言葉が、「今の私にはできないけれど」の意味ではなく「そもそも私にはできないのだから」の意味で使われていたことに、私は自分ではっきりと気づいていた。
ファシリテーションを学びに来ておきながら、「あそこまでできない」を枕詞にする私は、一体何をやろうというのだろう?
深いところで、チャレンジする前から私が私を一番にあきらめて、馬鹿にしていたんだ・・・と気づくのは、自分の傲慢さや臆病さに気づくよりも、もっともっと衝撃的で、悔しくて悲しかった。
いざという時に小手先の器用さで逃げる私は、「失敗する・できない」を経験することが心底怖くて、人生をかけてそれから逃げてきたんだと思い出した。
違和感を感じたのは、私たちが根底に持っている「失敗したくない、恥をかきたくない、私のせいじゃない」という怖れが、チームと共にあるという気持ちを上回っていたからだった(愕然)。
だけど、エリさんはいつだって、こんなにも誤魔化す私たちの臆病さを、小ずるさを、批判せず、甘やかさず、ただ見てくれている。「ちゃんと見てごらん」という言葉には、いつでも私たちを信じてくれる愛がこもっている。サポートの二人だって、私たちの未熟さを絶対に馬鹿にしないで、真剣にみてくれているんだ。
これまでずっと、エリさんたちがどんな風に私たちに関わってくれていたのかを初めてちゃんと想像した時、なんだかその途方もなさに涙が出た。
「絶対に信じて見てくれている目」というのが、エゴは一番怖いんだなと思った。 ゆっくりとその怖さを味わって、私はやっぱりその途方もなさに向かいたいなと思ってしまった。
ワークの提供は、案の定上手くいかなかった。分離したままの私たちはみんなで息を整える時間を持つこともなく、ただ私たちの「焦り」と共に時間が散っていくようだった。私は私で、最後までできる関わりをやってみようとしたけれど、空洞に鎖をかけるように不毛なコントロールをする姿を晒しただけで、大失敗。「見事に」何もできなかったけれど、それを私自身も、誰も馬鹿にしなかった。
アトリエに通いだして1年強、やっとやっとファシリテーターをめざせるステップに来れたんだと嬉しかったけれど、分かったのは「全然できない」ということだった!
今回そのことをちゃんと体験できたことは最高のギフトで、恥ずかしさや悔しさを感じるけれど、「それを超えたい」とまだ思えている自分が嬉しいです笑。
これからはじまる、途方もなさへの旅へ・・・♡