数年ぶりに参加した北軽井沢での合宿ワークショップでした。
初日の輪になってのシェアリングから、参加者それぞれが素直な声を表現している様子やエリさん達の優しい真摯な眼差し、焚かれたセージの香りに、ああワイエスの空間に帰ってきたんだ…と、ほっとしたような気持ちになりました。
様々なことを学びシェアし合いながら、毎日美味しい食事を皆で囲み…久々の合宿生活に当初は心配な気持ちもありましたがそれは杞憂で、楽しみながら日々過ごすことができました。
この合宿を通して、私は癒しというものに対して良い悪いではなく、自分自身と繋がり直すプロセスを、癒しやヒーリングと呼んでいるのだなと捉えるようになりました。
学んだ様々なワークは、今も日常の中で活かされています。このタイミングで学べていたおかげでよかった…と思う瞬間が、合宿後もありました。
また、過去のワークショップで学んだワークを今も時々していたりするのですが、それでも合宿に参加すると、いかに感じることより考えていたかを思い知らされます。
沢山学んだし、思索してきた。でも、すべてを感じきることを赦していただろうか?
うまくバランスをとろうと、想いや感情をそのままでいさせないようにしてはいなかったか。
思考の世界に入ることで、逃げたり鈍くさせたりはしてきていなかったか。そんなことも、合宿という集中の場ではあらためて思いましたし、講座中や毎日のシェアリングから食事中の雑談まで、様々な場面で気づきがありました。
最終日、アトリエの前で別れの挨拶をする際に、少し心細いような気持ちにもなったのですが、ふと見たエリさんが立っている姿がまるでしなやかな戦士のように感じられて、私たちの学びや存在を信じてくれているのだと、そんな感覚が伝わってきました。
私たち参加者がどんなプロセスにあったとしても、心配するというよりも信頼している。
その想いと誠実性が、初日のシェアリングの場からどの瞬間にも貫かれていて、その空間が心地よくて、私はワイエスの場にいると帰ってきたかのように安心するのだと思います。
私たちは日常という舞台を生きて、それでいて合宿ではアートを通して内なる問いや探究と向き合っている…。
その様を何と表現できるのか難しいですが、私にとってワイエスの場はコクーン、繭のような場所でもあるかもしれません。
ワークのプロセスは時に苦しくて涙したり…いつかどこかに置いてきたような感情やエネルギーが噴出したりもします。でも何が起きたとしても、繭のように守られている。
だからその繭から、普段の生活の中へ戻って行く時はあたらしく誕生するかのように、少し心細いような気持ちにもなります。
なるべくワークショップに特別性を持たせ過ぎないで、ただ「今」を生きている。そう感じられたらとも思うのですが、振り返ってみるとアトリエでの時間は特別な繭の中にいたようにも感じられます。
私はその繭を、アトリエと現実の生活みたいに分けるのではなく、自分のハートの空間にも存在させてあげたいと思いました。
そうすると、あの合宿での日々が自分の心の中で起きていたのか、目の前で起きていたのか、境界が互いに近づいてくるようにも思えます。
多分きっと、エリさん達も参加者のメンバー達も、ひとりひとりが私へのメッセンジャーであり、私自身でもあったのだということ。
アートを通して、深いところにいる私自身と繋がり、出会いにいっている。それは心の巡礼や礼拝のようなものかもしれません。
私たちは輪になってシェアリングをしながら、魂の礼拝をしている。
文字にすると大げさになってしまうかもしれませんが、ひとりひとりが様々な想いや作品を表現しながらもどこか静けさがある。
そういった言葉ではおさまりきらないことが起きていることがあって、また言葉にはしづらいですが、それはまさしくアートと呼ぶものだと感じてます。
この世界で何をもってして光や闇とみていくのか。その探究は、この昼があって夜があるようなコントラストがある世界ならではの味わい深い旅路なのだと思います。
この、時に不可思議で面白い旅路の中で出会えたアトリエワイエスや皆さまに感謝を込めて。ありがとうございます。