何かに夢中になったり、真剣に取り組むためには、大きな動機や意欲が必要です。
もしも、あなたが真剣に取り組む何かを見つけていないとしたら、それは自分の内なるパワー(意欲)を使っていないから。
もしかすると、あなたはその力を別の何か(例えば、怖れから抵抗したり、抑圧する)に費やしていることが多いのです。
根拠のない怖れから来る否定や抵抗のエネルギーをまず手放してください。
すると、不意に興味が涌いて来ることでしょう。
何かに夢中になったり、真剣に取り組むためには、大きな動機や意欲が必要です。
もしも、あなたが真剣に取り組む何かを見つけていないとしたら、それは自分の内なるパワー(意欲)を使っていないから。
もしかすると、あなたはその力を別の何か(例えば、怖れから抵抗したり、抑圧する)に費やしていることが多いのです。
根拠のない怖れから来る否定や抵抗のエネルギーをまず手放してください。
すると、不意に興味が涌いて来ることでしょう。
どんなことでも、真剣に取り組むと、面白さが生まれます。関わる前に、真剣に取り組む価値がないと判断してしまえば、楽しむチャンスを失ってしまいます。
「面白いこと」「楽しいこと」は、内容によって決まるものではありません。本質的に面白い状況が在るわけでもありません。
「面白さ」「楽しさ」は、自分のものごとへの関わり方によって決まります。
不運な出来事が起こった時、気持ちは後ろ向きになってしまいます。つまり、状況を正面から見ることができないでいるのです。それでは、適切な判断さえ下せませんし、前向きになることなどなれません。
まずは、「今、ここ」(目の前の出来事)を悲観するのを止めて、観察することから初めてください。
子供の頃のことを思い出してください。活き活きと無邪気だった頃。大人よりも腕力が無くても、夢を描く力は勝っていたはずです。
子供の頃は内なるパワーを信じることが出来ていても、成長するにつれて、大人の信じる限界や観念を信じるようになってしまいます。
もしも、パワーを取り戻したいなら、子供の無邪気さを思い出すことが役立ちます。しかし、それは子供のように振る舞えというのではありません。(あなたが大人だったら、迷惑がれてしまうかもしれません…)社会の通念や制限を手放し、既成の知識を捨てて行くことです。そこに発見の種や創造性のソースが見つかるでしょう。
「怖れ」は心配を創り出します。「怖れ」は焦りを創り出します。「怖れ」は不信を創り出します。「怖れ」は苛立ちを創り出します。「怖れ」は混乱を創り出します。「怖れ」は思い込みを創り出します。
さて、怖れることは何も役立つことを生み出しません。
それなのに、怖れることを止めないのはどうしてでしょう?
人の怖れを傍から見ると、怖れるに足るものではないことがほとんどです。
でも、気づくと怖れることに夢中になって人生を費やしてしまうのは、もったいないと思うのです。