「嫌われる勇気」という本が160万部以上売れている理由は、何だろう? それほど、日本には嫌われることを恐れている人が多いということなのかもしれない。
「嫌われる勇気」というタイトルは確かに刺激的だ。アマゾンのサイトを見ていたら、別の著者が「嫌われる勇気…」という同じタイトルの本を出していることに気づいた。変だなぁ、と思ってよく見ると「嫌われる勇気を…もった○○の生き様」という本だった(笑)しかも、表紙の色まで一緒なんだから間違っちゃうでしょ、これじゃ…。でもね、わかる気もする。それくらい「嫌われる…」というフレーズは目を引くのだろう。
でも、私にはあまりそのタイトルが響かなかったのは何故だろう?
思い返してみると、子供時代、私はいわゆる「良い子」じゃなかった。
マイペースだった私は、親や先生から叱られることはあっても褒められた記憶があまりない。しかし幸か不幸か、当時の私は、大人に嫌われないように努力したり、好かれるために媚びを売るような器用さは持ち合わせていなかった。
学童期というものは理不尽な出来事が日常茶飯事に起こるサバイバルゲームのような時期だが、そんな中、なんとか「折れない自分軸」を保つことが出来ていたのは、もともと嫌われることに免疫があったからなのだろうか?
「折れない自分軸」といえば聞こえはいいが、別の見方だと「我が強い」という意味になる。こどもの頃、自分のそんな気質は周りの大人から見ると減点の対象だと解ってはいたが、「これが自分なんだから仕方ない」と、半ば開き直っていた。しかし、ただ単に自分以外の世界ををまだ知らなかっただけだなのかもしれない。
ところが、芸術の専門高校に進んだ時、興味が持てる友人に出逢い、自分の中に異変が起った。あんなに孤立しても自分の世界を大切にしていた自分が、友人との協調を心地良く感じるようになったのだ。
私は自分以外の世界に心を開いていくのと同時に、だんだんと傷つくことを恐れるようになっていった。そして、いつの間にか私は、「人と意見が違ったら嫌われる」「みんなと一緒の方が楽しい」という思い込みを持つようになっていったのだ。それでは、スリルも面白さもなかったが、とりあえず平和な友好関係を保つことが「友情」そして「絆」なのだと勘違いしていた。
マズローの欲求階層説によれば、個が確立する前の未熟な子供だった自分が、集団への関わりを持ちたいという欲求を覚えていく段階だったのだろうと思うが、苦し紛れに、集団の中で独立と依存とのバランスをとろうとしていたのだった。
そんなギリギリの自分に、どこからか「あんたはそんな子じゃなかったでしょ?」と冷ややかに見ている自分がいたが、それでも「我を通したら人に嫌われる」と、信じていた私はどんどん自分軸を失い、次第に自分のことが好きではなくなっていった。人から嫌われることを恐れていたら、自分に嫌われてしまったのだから可笑しな話しだと思う。
「嫌われる勇気」という本が、その時私の目の前にあったら、すぐに飛びついていただろう。
しかし、なぜ、自分らしく、正直に生きると嫌われてしまうだろう? 自分の考えを持つとは、そんなにリスクがあるのだろうか?
そんなの可笑しい…
「嫌われる勇気」というタイトルを読んで感じた違和感はそこにあった。
人と違う意見を言ったとしても、嫌われたり、対立したりするとは限らないはずだ。
さて、こんなエピソードがある。
大学時代の仲の良い友人とおしゃべりしていた時のことだ。私は、当時抱えていた問題について長々と持論を展開したあげく、彼女の意見を求めた。当然のことのように彼女なら私の考えに共感をし同意してくれるだろうと思いながら…。
しかし、平然と口を開き、微笑みながら彼女は言った。
「そうかなあ。私はそう思わないな…」
予想外の言葉に、私はドキッとした。
ええっ?! 友達だったらここは同意してくれるところでしょう?たとえ異論があっても黙って聞き流してくれたら良かったのに…。
言葉にも出せず、私はただ落胆していた。
今思えば大げさな話だが、親友だと思っていた人の期待外れの言葉は、未熟だった私を崖から突き落とすぐらいの威力をもっていたのだ。(笑)
ぺちゃんこになった私は、頭が真っ白になったことが功を奏したのか、だんだんと視界が開いてくるのが解った。
「私はあなたと異なる意見を持っています」ということは、「私はあなたを否定しています」という意味ではない。
たとえ、意見が異なったとしても、どちらかが正しかったり、間違っているわけでもない。
もしも仮に間違っていると言われたとしても、自分を卑下する必要などないのだ…。
そのことに気づいたとたん、堂々巡りの思考の渦から、視界の広がった空間に抜け出していた。私は、その時はじめて、在るがままの自分として在るがままの相手と向き合うという体験をしていた。
思えば、彼女は本当に裏表のない正直な人だった。
誰かの陰口を言うこともなかったし、自分の意見をはっきりと言うことができた。だけど誰かに嫌われることもなかったのだ。
なんか、かっこいいじゃん\(^o^)/
…と、素直に彼女の在り方に感動している自分がいた。
すると、張り子のような鎧がパリッと音をたてて壊れていったのだ。
自分の意見を自由に主張することは対立することとは違う。反対に、人の意見を否定する必要も権利もない。仮に異なる意見と出逢い、心地良いと感じたら、それまで持っていた意見に執着せず手放していい。
そんな自由な心を、私はこの時はじめて知ることができた。ある意味、これが本当の「自我のはじまり」だったのだ。
自分を貫くことは悪いことじゃない。
自分の考えを持つことはとても自然なことだ。
それなのに、どうして私たちは、自分の考えと持ったり、在るがままの自分を出すことできないのだろう?
なぜ、本音で生きる事が難くなってしまったのだろう?そんな素朴な疑問が沸いた。
ならば、自分の本音とやらを探ってみようじゃないか!
…と、言うわけで、よろしければもうしばらくおつきあいください。