見えぬ十字架

「赦し」
その言葉を繰り返していて、いろんなことが頭を巡ります。
赦しって何だろう?

悪いことをすると赦されない、とか。
赦してあげる、とか。

赦しには何か上段の構えを彷彿とさせるニュアンスを含んでいるようです。
赦しについてワークをするとき、多くの人がひっかかりを感じるのはそのせいかもしれません。

表現アートセラピー画像2<赦し>はこの秋のインナーチャイルドワークのメインテーマでもありました。
ワークショップを終えて、その体験の深さや自分の変化を見つめているうち、あっという間に時間が経ってしまい、なんだかワークについて書くのも気が引けてきた頃でした。

これって罪悪感なのだなあ…と独り言を言いながら、日々の忙しさを言い訳にしていたら、すこしづつ気持が落ち込んでくるのに気付きました。

11月にもう一つあるWSのテーマが<落ち込み>なので、「ここに繋がったのか!」と苦笑しながら、棚上げしていた<赦し>について、よっこらしょと包みを開けてみることにしました。

赦しは、キリスト教の教えの基本となるもので、すべてはこの赦しの状態を体験することに繋がると言っても過言ではなさそうです。
でも、別に宗教のお話がしたかったのではなくて、赦すということの大切さや、この秋のインナーチャイルドワークを通して学んだことなどを振り返ってみようと思います。

表現アートセラピー画像3日常生活の中で、赦すことなどあまり無いように思えるのですが、どうでしょう?

誰かの振る舞いに批判的になっている時。やるべきことを出来なったとき。人のしくじりや自分のしくじりを笑えなかったとき。
私達は常にジャッジを繰り返しながら他者や自分を裁いているのです。
解っちゃいるけど、やめられないのは「裁くこと」つまり、赦していない状態が継続しているのです。

日常で「許せな〜い!」などという言葉を安易に使っている自分に気づいて「私は裁判官か?」とつっこみを入れたくなりますよ、ホント。

人がやることにはイライラするのに、自分で同じことをやっても大目に見たり、反対に自分のしくじりがどうしても許せないなど、実は赦せない事柄は日常茶飯事に起こっているのです。

表現アートセラピー画像4現在もこの調子なのですから、過去を振り返ってみたらどうでしょう?
どれだけの裁きを私達は行っていたのか?
想像しただけでも、落ち込みそうですね。

過去に傷つけられた思い出。沢山あるはずです。
しかし、赦せない自分は、結局その過去をずっと引きずっているのと同じなのです。
自信が持てない理由は、失敗した過去の自分を赦せないから、というように。

そう考えてみると、こんなことが解ってきます。
赦せなくて苦しいのは実は自分だという事実。
目に見えない十字架を背負っているのは自分なのでは?
赦すのは、自分を赦すということ?

表現アートセラピー画像5…その通り。

赦すとは、相手や起こった出来事に固着してしまった心をほどくという意味。そうすると、そこから生まれる怒りも、悲しみも、悔しさも流れて行く。自分の中には留まらず、その感情から解放されるのは誰かというと、自分です。

そしてさらに理解を深めて行くと、こんな事が解ってきます。
赦すとは、罪を犯した相手や起こった事柄を無罪放免にすることではないということ。
「赦せない」という気持になる原因の一つに、「赦したら、相手は反省できない」という思いがあるらしい。

罪は許されない。それは反省や罰を強いるための正当な理由。
赦せない気持を背負ったまま、それを正当化しながら、自分をエッジにまで追い込んでいく。
表現アートセラピー画像6赦せないことで傷ついている自分が見えないのです。
そしてそれは大きな壁〜罪悪感という感情となって自分の目前に立ちはだかります。赦されない自分というイメージは、それを投影する現実を引き寄せてしまうのです。

しかし…、赦されないでいる人が、本当に自ら反省する気持ちになるでしょうか?
もしも、自分が罪を犯したとき、赦されなかったら反対に(罪を犯したことへの)言い訳をしたくなるでしょう? むしろ赦されたら、自分の落ち度を振り返る余裕も出てくるというものなのだと思うのですが。

本来「赦し」は罰や反省とは何も関係ないところに在るのです。

そう、赦しとは、解放。
そして導き。

秋のインナーチャイルドワークは傷ついた自分の傷を癒し、自分を赦すための深いプロセスを誰もが体験する機会となりました。
自分に架した様々な制限や裁きは、人生を生き抜くためにはあまりにも不自由な防具にも似た十字架だったという事実。

 表現アートセラピー画像7それらを認め、勇気をもって手放すとき、本当の解放、癒しが起こります。

赦すためには沢山の勇気が必要だろうと思います。
手を離すまで、何が起こるか想像もつかないでしょう。

しかし、長い呪縛のドラマを集結させるためには、赦すこと、つまり罪という幻想を認め、解除する必要があります。

一枚、そして一枚、心を見つめ絵に綴る時間。
一つ二つ、傷ついた心、捕らわれた心を解放していく。

そして自分自身が創り出した幻想であるというトリックに気づくことが出来たとき、ようやく背負っていた十字架が解けて行きます。

そのとき、子供たちはようやく安堵できる我が家へと還っていくのです。

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