いつもよりほんの少し遅い蝉時雨の中、誰もが自分の人生の途上に立っているのだとしみじみと感じるワークの幕開けでした。
夏のはじめのテクニカル講座は、はじめて表現アートの洗礼を受ける人達の瑞々しい創造力に出会える貴重な機会です。
慣れない不自由な空間や人との距離感の中、不思議と人間は自分らしさを最終的な拠り所にするのか、誰もが驚くほど素直な自分をさらけ出してくれることが、いつものように私の心を動かしてくれるのです。
日々の自分の変化や、出会う人との関わりが私の世界に彩りを持たらしてくれます。
自分の心を見つめ、ワークに足を運んでくださる人の心を見つめ、人生に触れることで、生の人間が生きることがどういうことなのかを学んでいるのかもしれません。
新聞もテレビも見なくなって何年にもなりますが、そのおかげで、自分の感性や価値観を尊重し、忠実に生きられるようになってきました。
そうやって過ごしてみて今思うことは、人生とは終わりまで答えなど出ないということ。すなわち、道の途上にある一瞬の点として在る今がすべてであること。今の集合体はいつしか人生という名の道となるのかもしれません。
そんな道を誰もが歩んでいるのだと、ワークの中で私は体感します。
夕方、嬬恋の畑に囲まれた道を散歩します。
畑の中をまっすぐ空へと繋がるような道を歩きながら、ふと知らない道を行ってみたくなることがあるのです。見通しの悪い道では、ただ先に進むことが怖く先を急いでしまうことばかり考えてしまうように、人生の道も平坦ではありませんでした。
私はこの道を何度疑ったことだろう。
何度、引き返そうかと迷ったことか。
時折出くわす十字路の上で、私は何度行き先を誰かに尋ねたのだろう?
どんな道であっても、これが自分の選んだ道なら、この道を信じて進んでみようと今は思えます。
今年の夏も、道を歩む旅人に沢山出会いました。
ある人は迷い、またある人は転んだ膝小僧についた砂利を払い落としながらも再び歩き出すその後ろ姿に、いつしか自分を重ね合わせていることに気がつきました。
いつもより甘いトウモロコシ。
いつもより早い夏じまい。
いつもよりほんの少し遅い蝉時雨。
夕方の散歩道。
オニヤンマが夏の終わりを告げに来たのを知るのです。