参加者の声【定期専修講座2011】閉ざされた感情の扉を啓くということ

私は、この定期専修講座に参加するまで、自分のことを「怒らない人」だと思っていました。
それが、「怒らない」のではなく「怒ってはいけない」と自分で選択していたということに気付いたのは、サウンドとアートをテーマにした定期専修講座3回目のことでした。

その時の身のすくむような感覚を、今でもはっきり覚えています。特に印象的だったのは、生まれてから今現在まで、自分が感じてきた感情を絵に表現し、その絵を足がかりに、感情を自分の声と楽器を使って表現するというものでした。
ワークが始まった瞬間、他の人達が発する様々な声や音が津波のようにわーっと押し寄せてくる感じがしました。

私の心の中で「怖い!!!」という声がぐるぐるまわり、身体はおろおろと立ちすくみ、今にも泣き出しそうでした。
特に怖かったのは、怒鳴るような大声、ガンガンと打ち鳴らされるシンバルの音でした。私は、夜中に両親のケンカの物音で目を覚まし、母の髪の毛を引っ張る父を「お父さん、やめて!!!」泣きながら止めている子供の頃の自分を思い出していました。「大きい音がすごく怖いの。」と思い出したことをワークのパートナーに伝えながら、自分を見守ってくれているパートナーの存在感に励まされ、なんとか、私は、自分のこれまで経験した感情を声と楽器で表現し終えたのでした。

そして、わかったのです。子供の頃の私が、「怒りを表現することは怖いこと」だと感じたこと、「こんな怖いこと、私はしたくない」と決めたということが。私は怒らないのではなく、「怒ってはいけない」と自分で自分に禁止していたのでした。

それから、怒りを粘土で形作り、身体の動きや声を使って表現するというワークがありました。私は意を決して、大声を出してみることにしました。お腹の底から大声を出し、足をどたどたと踏みならし、怒りの粘土はあっという間に、新聞紙と入り混じりぐちゃぐちゃになり、私は、くたくたになりました。はあはあと息をきらしながら、激しい怒りを出し切ってしまうと、まるで感情の堤防が決壊したように、いっきに悲しさや寂しさが押し寄せてきました。私は、両親のケンカを目の当たりにしても自分にはどうすることもできない無力感を感じていたし、お互いをわかりあえない両親の関係が、悲しかったし寂しかったのです。両親を傷つけることを怖れて、その気持ちを両親には言えず、心の奥底にずーっとしまって生きてきたのでした。

今まで自ら抑えこんでいた怒りや悲しみ寂しさを、初めて出し切ったとも言える3回目の定期専修講座を境に、私の中で何かが変わり始めました。あれだけ怖くて、強い嫌悪感があった「怒っている人」が怖くなくなり、夫が怒りを表現してもおろおろしなくなりました。以前は、言葉で伝えることにどうしても抵抗感があった、夫に対して感じている不満や不安を、ため込まずに少しずつ素直に率直に言葉で伝える努力や工夫をするようになりました。それは、怒りを抑えこむ弊害に気付いたからこそ、抵抗感があっても、あえて伝える努力をしよう、伝える訓練をしようと決めることができたのだと思います。

抑えこんでいたものを解放しようとするとき、痛みや不安、混乱を体験します。それをあえて試すことができたのは、良いとか悪いとかジャッジせず、ただ起こっていることを見守り、率直な感想をシェアしてくれる、不安定な自分を安心して表現できる定期専修講座という場と仲間があったからだと思います。この場を通じて、私は、初めて「素の自分」を表現する心地良さと安心感、素の自分を表現することでしか得られない信頼感を知りました。

「怒ってはいけない」と自分に課すのと同時期に、私は、自分の心の内を人に話すことをあきらめ、人前で表現してもいい自分と、人前には出さない自分を切り分けるようになっていました。
自分が本当に感じていることを表現する=素の自分を表現することは、いつしか、私にとって、とても恐ろしくてできないことになっていました。
自分が感じていることを率直に口にしたら、恐ろしいことが起こる・・・私は、本気でそう信じていました。
でも、恐ろしいことは、何も起こりませんでした。シェアの場で、起こったこと・感じたことを努めて素直に率直に話すと、誰かが「そんな風に話してもらえると、私も話しても大丈夫なんだって思えて話しやすいし、安心する。」と言ってくれました。

仲間のワークを観察者として見ていて、真摯に自分の内面に向き合いそれを外の世界に表現することは、涙が出るほど美しいことだと感じる機会がたくさんありました。講座を通じて、素の自分を表現することは、ちっとも恐ろしいことではなく、安心感や信頼感が生まれる美しいものだという感覚を自然に持てるようになってきました。

私は、この6回の定期専修講座を通じて、閉ざされていた感情の扉が、一つずつ啓かれていったような感じがしています。
自ら閉ざしてしまったほこりだらけのさび付いた扉を開けようとするとき、扉はきしみ悲鳴をあげ痛みを伴いますが、その痛みを感じきって扉を開けたとき、そこには豊かな世界が広がっていました。
啓かれた感覚で、日常生活を眺めると、今まで気付かなかった豊かさがあることに気付くことがあります。それは、勇気を持って扉を開いたからこそ得られるギフトなのだと思います。
扉を開ける勇気や励まし、知恵をくださったエリさん、インストラクターの皆さん、そして共に泣いたり笑ったりいろんな経験や感情を共有した仲間のみんなに心からありがとうの気持ちを伝えたいです。
これからも、閉ざされた扉に気付いたら開けるということを続けていこうと思います。
悲壮な決意ではなく、時に楽しみながら。