誰しも人の役に立つことが「うれしい」と感じたことがあるでしょう。
子供のころ、親の喜ぶ顔みたさに、ちんぷんかんぷんな手伝いをやりたがったものです。友達から助けてもらったうれしさから、自分も誰かを助けたいと思うようになったり…。
誰かのために役立つということは、人の為に生きることではありません。相手に認められたいという承認への欲求からするものとも違うような気がします。それは多分、潜在的な寄り添いたいという欲求から生まれる行為なのだと思うのです。
カウンセリングの父と謳われたカール・ロジャースが唱えたセラピストの三つの条件(1.共感 2.受容 3.自己一致)の一つである「共感」は、この「寄り添う」ことを示しています。
「寄り添う」という在り方は、セラピストやカウンセラー、教師など援助者という名のつく人達にとっては、基本的な態度条件として掲げられているものですが、私の中で、いつしかそれらは教科書に書かれた飾り罫がついた標語のようになっていました。
それに気づかせてくれたのは、今年の定期専修講座の出来事でした。
定期専修講座は6ヶ月に渡って表現アートセラピーを学ぶ全6回の連続講座です。かれこれ10年以上開催し続けていますが、毎年第5回目の回に、なぜかいろんなハプニングが勃発するのです。(笑)そう、起こるのではなく、「勃発」です。結果的には、そんな出来事は後になって、成長したり、気づくきっかけになっているのですが、今年は私にとって大きな気づきをもたらす機会となりました。
ここでは、カウンセリングの基礎知識を学ぶため、セラピストの三つの条件の一つである「自己一致」について理解を深めるために、自分自身のイメージを解体し探究するワークに取り組むのですが、この「自分とは、誰か?何か?」という問題がわかりにくい上に、理論的に自分を考察する作業が多いためか、毎度のことながら、行き詰まりを感じる人が多いのです。
一日目の自己一致・不一致のワーク終了後、理解できないもどかしさを訴える人が何人が出て来たところで、私が説明を加えたところ、さらに混迷を深める人が出る始末…。
「問題の種明かしをしなくては…」という気持ちからしたことでしたが、それは問題に葛藤する人を見ていられなくなった私の中の焦りだったことに、あとから気づくことになりました。
答えが見つからないもどかしさを感じている時や、解らないことがある時、誰もがストレスを感じたり、無力感に襲われます。答えは、すぐに解る時もあれば、忘れたころ見つかる時もあります。そのストレスを乗り越えるためには、問い続け、答えを求め続けることが大切です。
すぐにすっきりしたいところですが、答えを誰かから教えられても意味がありません。
問題にぶつかり悩む人に、カウンセラーが答えを教えてあげることは無益です。その人の問題は、その人の意識の変化によって解決されていくものだから。援助者が、ただ寄り添うことしか出来ない無力感から「なんとか解決してあげなければ…」と心配し、手を差し伸べることはお門違いなことなのです。
そんなことを知っていながら、「人をサポートすること」「人に寄りそうこと」の意味について考えている時、私はある重要なことを思い出したのです。
私は、あの時誰にも寄り添っていなかったこと。
そして、寄り添うということの、本当の意味を。
「私には、寄り添うということが良くわかりません」
2日目の朝、参加者の一人が呟きました。それに頷く人も多く、「寄り添うこと」について、いろんな意見が出た時、私の中でほどけていく何かを感じていました。
あれこれと説明する代わりに私は、昨夜自分の中で起こった気づきについて話はじめました。
寄り添うためには、何か役立つことをしなければならない焦りを感じていたこと。自分の居心地の悪さと向き合うことよりも、「何か」をしようと自分や相手をコントロールすることは、その場を放棄してしまっていることと同じだったこと。
「寄り添うだけでは無力なのだ」という考え方が、まったく間違っていることに気づいたことを伝えました。
寄り添うとは、相手の痛みや悲しみと共に、自分の無力感や居心地の悪さを感じながら、その場の凍てつく空気と共に居るということです。そのためには、とてつもない勇気が必要です。
そんな丸ごと、在るがままの自分に寄り添うこと。
そして、ただ在るがままの相手を受け入れること。
大げさに聞こえるかもしれませんが、そんなチャレンジをするため私たちは生まれてきたのかもしれないとさえ思えたのでした。
この経緯がどのように影響したのかはわかりませんが、今年の専修講座の5回目は、暖かい空気の流れる中、誰もが自分や人と繋がることにひたむきになっているように見えました。
このことがあってから、私の中で変化が起こり始めました。
自分の思考にばかり捕らわれずに、ただ起こっている感覚や感情と共に過ごすことを大切にしたいという気持ちが生まれたのです。
出来事は無作為に起こる海の波のようです。
それから逃れることも出来ないし、コントロールすることは不可能です。
在るがままとは、文字通り「在る状態そのまま」のこと。それを、受け入れることが無条件の受容なのです。私たちは、この流れにいい意味で降参し、ゆだねることを学ぶ必要があります。
人間は、自分の在るがままを受け入れてもらいたがり、それでいて、自分の在るがままを認めず、相手の在るがままにも文句をつけるのです。それでは、いつまでたっても寄り添うことなどできません。
自分にすら、近づけないのですから…。
誰かと寄り添うなら、まずは、自分に寄り添うことからはじめなくてはいけません。セラピストの態度条件(1共感 2受容 3自己一致)を、自分に適用したとき、私達は、はじめて他者を受容できるようになれるのではないでしょうか?
それは、まるでロジャースが私達人類に残してくれた遺言のようにも思えました。
私達の中にある寄り添い、受け入れ、純粋に在ることへの欲求。
無力かもしれませんが、ただ誰かのそばに、そっと寄り添いながら、出来る事が一つだけあります。それは、相手や自分の神性に心を開いていること。すると、不思議と暗かった心に光りが見え始めるのです。
そう、寄り添うとは、有機体としての人間に生まれつき備わっている愛の別名なのかもしれません。
Stand by Me
And the moon is the only light we’ll see
月の光だけが僕らを照らす唯一の明かりになってしまってもNo I won’t be afraid, no I won’t be afraid
べつに僕は恐くなんてないよJust as long as you stand, stand by me
きみがそばにいてくれたらby Ben E.King