誰でもわだかまりを残したまま、逢わなくなってしまった人が一人や二人いるのではないだろうか。
出来ればわだかまりを解いて、風通しのよい関係を結べたらいいということはわかっていても、自分から逢いに行くのは億劫だし、できれば避けていたい。結局、糸口が見つからず、棚上げしてしまいたくなるのものだ。
私にも、そんな人が数人いて、ある日、その一人と出会う機会が不意にやってきた。
東京に来ているので立ち寄るというのだ。
とたんに頭が高速回転で働きはじめる。
逢ったら、どんな風に接したら良いだろう?
うわべの挨拶など、何の意味があるのか?
何を話したら、痼りが解けるのだろう…?
気づくと、過去の自分の行いを正当化する思考に占領されているではないか・・。
可笑しいぞ、自分…。(笑)
無意識でその違和感から逃れようとしているのだろう。
やがてそんな自分が憐れになってきた。
頭と切り離されてしまっている<気持ち>はどうなっているのか?
探って行くと、波立つ水面のような思考の下には、泡のように生まれては消える感情や感覚が往ったり来たりしているのが見えて来た。
さらにその下のほうに潜ってみると、そこにはなじみ深い古い痛み(原感情)がポツン…と、おきざりにされていた。
それはなじみの感覚だった。
「あぁ、いつものあれかぁ…。」
知ってはいたけれど、じっくり感じると、居たたまれなくなり、何かをしたくなるあの感覚だ。
いつの頃からか、この感覚が涌き上がると、紛らわせるために、忙しく自分を追い立てるようにしていたのを思い出した。
「いい加減にしてくれ」という気持ちが涌いたが、その日は何故だか、逃げずに感じてみようという気になったのは意外だった。
「………」
しばらく、感じていると霧が晴れるように見えてくるものがあった。
問題は、わだかまりのある相手ではなく、その人との関係の中で感じた感情の根本となる過去の体験が核となっているようだった。
ただ、その体験事態の記憶はもう粉々になってしまっていて思い出せない。むりやり、記憶を意味づけることはその痛みに絆創膏を貼って押し込めてしまうような気がして嫌だ。
在るのは、ただの原感情(私の場合のそれは)、「寂しさ~分離感」だった。
その感覚を感じる時にいつも見えてくる原風景はこんなイメージだった。
夕焼けの荒廃した焼け野原に置き去りにされ、立ちつくし、誰かを待つ子供の目に移るパノラマの風景画。
鼻につく焦げた匂いと、焼け跡の生暖かい風に乱されて、頬に張りつく髪の毛…。
もちろん、それは実際の出来事ではなく、夢の世界や幻想なのだ。
寂しさを感じた記憶を辿ると、あれこれエピソードが思い出されてくるが、それが原因かどうかは解らない。
だいたい、エゴはトラウマティックな定番ドラマを好むが、そうやってすぐに自分を悲劇の主人公に仕立て上げるのは問題をすり替えるようなものだ。
大切なのは、その感情をただ味わうことだけだった。
普段は、味わうことを避けるために、思考し、正当化をするのに忙しいのだが、これはまるで責任逃れの「言い訳」に似ている。
思えば私は昔から、言い訳をする人が嫌いで、批判してきたのだが、それは自分が常に自分にしてきた所行への嫌悪(*シャド-)だったのだと思う。
*自分の欠点や認めたくない部分や要素。対人関係において、否定的感情を伴う場合、受け容れられない自分自身の部分(シャドウ)を相手に投影し、抑圧・切り離しをしている。
人間が怖れる苦しみとは、この分離感への抵抗から生じているに違いない。
失敗や、病気、孤独や喪失など、いろんなシチュエーションを怖れるけれど、結局はその先に潜む分離感を避けるための必死の抵抗が苦しみへと変化するのだ。
セラピーの定石なら、ここでインナーチャイルドをイメージし癒すところだろう。
「よしよし、寂しかったね…」って。
でも、その時はとっさに、「いや、違う…」という思いが過ぎった。
それでは、<生々しい痛み~在るがままの感覚>は置き去りにされてしまう。
思考やイメージで占領された頭で解決することじゃなくて、その「感じ」と共に過ごすことが大切なのに…。
そう直感した私は、ただその痛みを色で丁寧に描いてみることにした。
その寂しさや、痛みや、悲しみを、何度も、何度もクレヨンで。
それはまるで、痛む自分と寄り添い過ごす時間だった。
思えば、表現アートに出会ってから、こうして在るがままの感覚を手探りで絵に描き、声に出し、身体を動かして味わい尽くしてきたのだ。
それは知らず、痛みと「二人きり」になり向き合う勇気を自分に与えてくれていたのだろう。
どれくらい時間が経ったのだろう。
しばらく溶け合うように「それ」と共に過ごしているうち、フッと身体と心が楽になっていた。
いつのまにか頭は静かになっていた。
怖れや悲しみが消えると、違和感も正当化する思考も消え、ただ残ったのは相手への親しみの気持ちだけだった。
その数時間後のことである。
予期せずその相手とばったり出会ったのだが、自分でも不思議なくらい自然に再会を喜ぶことができた。
何年もの間、隔たるようにそびえていた壁が、心の中から消えて行った。
つづく・・・