私は物心ついた頃から絵を描いていた。
私にとって「表現する」ということは自然な行為だった。呼吸するように、反復運動のように、絵を描いていたことは、自由で至福の時間だったのだと、つくづく思う。
そんな子供時代と同じように、自然に表現することが今できているかといえば、あの頃と同じ自由を満喫しているわけではないなと感じる。
人間はそもそもなぜ表現することを欲求するのだろうか?という疑問にとらわれることもある。何を表現したいのか?
そのことを自分に問いだしたとき、私は絵を描くことが苦しくなってしまった。
そして、その苦しさを受けとめながら、表現することの意義について、自問自答を繰り返し、その意味を探すことが現在のライフワークにもなっている。
いま私にとって、(子供の頃のように)自由に表現する場は、この表現アートセラピーのワークの中だけに限られているのかもしれない。このワークの時間は確実に、私が自己表現するステージを確保してくれる。そして、私の中の「監督者」が描くことの許可を与え、描いたものを承認してくれる唯一の機会ともいえるのかもしれない。
ゴールデンウィークのコースのテーマは「陰と陽」だった。
絵やムーブメント、詩で表現することを通して、自分自身の葛藤や分離に直面することが今回のテーマだった。
究極の二元論的概念から、ホリスティックな観点へのチャンネルの移行が可能となってくるのかもしれないと、この深いテーマにたいしての、ある期待があった。
対局に位置する、自分の中の抑圧した片翼を見つけるためにすることは、ただ無心になることだけだ。
自分の中の影への嫌悪感や、光への期待感。光を認めることへの抵抗感。
いつものように絵を描いたり、身体の声を聴きながら、またファシリテーターとして場の空気を感じながら、描き慣れた自分のボディの絵をぼんやりと見ていたとき、ふと意外なことに気が付いた。
それは、自分自身が予想もしなかった抑圧の事実だった。
見慣れた風景の中に、ある時大きな問題解決のヒントとなる秘密の果実を見つけたような、そんな気分でもあった。
これまで何度となく同じようなワークを繰り返してみて思うのだが、自己を知る作業はただただ果てしない。こんな果てしない作業を繰り返すことへの懐疑心におそわれることも少なくない。「何も考えないほうが楽だ」とさえ、思う。
しかしながら、得体の知れない、何か漠然とした「怪物」に追いかけられるような不安を感じながら絵を描いていた昔に比べれば、今はその「怪物」と檻の中で共存している
ぐらいの感じで、怪物と慣れ親しむのも悪くないな、と思い直す。無心に絵を描いていたころには得ることができなかった砂漠の中のオアシスの水を、この自問自答のワークの中では見つけることができるのだ。
アートセラピーのコースのような、グループセラピーでは、皆、様々な問題を扱いながらも、
同じようにその得体の知れない自己=怪物と向き合うことへの不安を互いに励ましたり、支えあったりすることもできる。
コースが終了した後も、自己の成長のプロセスは終わることなく続いていく。まさに人間の呼・吸と同じように、ある一定のリズムを刻みながら、絶妙なタイミングで、今居る状態から他の状態へとチャンネルを切り替え、プロセスの流れは躍動しながら続いていくのだ。