表現アートセラピーと私

表現アートセラピーとの出会い

私が表現アートセラピーと出会ったのは、美術大学を卒業し、その後、社会人として絵を描くことを生業にしながらも、自分の本質を描いた絵を描けずに、厚い壁にぶつかっている時でした。「もう、きっぱりと絵を描くのをやめてしまおうか…」ただ、絵を描くことをやめたとしても、アートに触れてはいたいと思っていましたので、なんとか関連する仕事はないだろうかとあれこれ思い描いたりしていました。

そんななかで、ふと浮かんだのが「アートセラピー」というキーワードでした。しかし、今でこそインターネットの恩恵によって、アートセラピーという言葉を検索すると幾多の情報を得ることができますが、当時はまだ詳しい情報を得る手だてはほとんどありませんでした。
そこで手当たり次第に文献を探し、それかと思われるセミナーに参加しながら、何となくしっくりこないなあと違和感を覚えつつ、とまどいを感じていた、そんな日々でした。

なぜ当時、違和感を感じていたかというと、私が体験したセミナーは、皆一様に、描いた絵から心理状態を分析したり、マニュアル化したテキストをなぞるといった内容だったからです。それは私が求めていたものとは何か本質的に違っていました。どんなに正確に分析されても、こちらの心は晴れないのです。それは誤解を恐れずに言えば、私にとっては、あたかも占いで性格を判断されるような体験でした。
症状や原因が分かっても病気自体が治癒しないように、心についても何故そうなったかが解っていても、どうすることもできない苦しさだけが残ります。実際の臨床の現場では役に立つものなのかもしれませんが、アートを通して自分自身を知りたい・・という私の欲求は満たされることはありませんでした。

また、ただ単に絵を描くだけで、アートセラピーという名の療法に位置づけられること自体、なんとなく腑に落ちませんでした。アートとは「何かを描くことではなく、自分の中の創造性をみつけてそれを掘り出していくことではないか?」と感じはじめていたのです。

そんな混沌とした生活の中、一冊の本に出会いました。『表現アートセラピー・開かれる創造性のプロセス』というタイトルがついたその本は、米国の心理療法家で知られるナタリー・ロジャーズによって確立された表現アートセラピーのプログラムについて書かれたものでした。内容を読み始めるうちに、期待は確信へと変化し、やがて、表現アートセラピーを学んでみたい!と思うようになりました。
しかし当時は、まだ日本では本格的に表現アートセラピーを学べる機関は無かったので、結局は渡米して、現地で学んだことが、それからの私の人生を大きく変えるきっかけとなったのです。

創造性と五感の関係

ナタリーが確立した表現アートセラピーは、あらゆる芸術的な表現方法である、絵画、彫塑、音楽、作詩、ダンス等を織り交ぜてプログラムが成り立っている大変興味深いものでした。
絵を描いて、その絵に音をつけてみたり、身体で表現したりすることで視点が変化し、気づきにつながっていく、その方式を彼女は「クリエイティブ・コネクション」と名付け実践してきました。

実際に私自身が体験したり、これまで自分がワークショップを開催してきて感じるのは、人により、イメージにつながる視覚が発達している人、聴覚が優れている人、体感の感覚に敏感な人、に分かれ、また同じ人間であっても、そのときの状態によって、敏感になる部所が変化することがあるということです。

絵を描いただけでは なにかピンと来ないことも、その絵を音にしてみたとき何かを感じたり、自分の身体を動かしたり、かたどったりすることでこりかたまった認識が変化し、気づきが起こるきっかけとなります。

そして、さらに、過去の記憶をたどったとき、それがどこの感覚器官と繋がっていかという照合に役立てられます。
これは心理学のNLP(Neuro Linguistic Programming神経言語プログラミング)の理論の中でも体系付けられているように、人間の経験は、五感を通して認識、記憶されるという考えに基づいて成り立っているものだといえるでしょう。

経験によっては、何らかの理由で感情と記憶とが乖離した(切り離された)状態で抑圧されてしまうことがあります。それは時に理由のわからない不安感や、恐れ、鬱、自己不信などの問題となって表面化することがあります。
この抑圧された感情を掘りおこすには、思い当たる記憶を辿る道中、あらゆる感覚を刺激するという方法(絵を描いたり、体感を感じること)を用いることが効果的です。
過去の精算できずに抑圧していた感情を掘りおこし、再体験することによって感情と記憶の統合が起きます。
この統合により、精神生理的に固着していた認識を改めて開放することができるのです。

私自身、実際こういったことは、理論的に理解することだけでなく、この統合のプロセスを実際のコースの中で何度も体験することがありました。
たとえば、ある時「怒り」をテーマに感じていることを表現するワークで、私はまったく行き詰まってしまいました。怒りを表現するかしないか、ではなく、「怒り」そのものを感じたくない自分がいることに気がつきました。私にとっての怒りは、ただ描くという表現では解放しきれないエネルギーだという認識から、感じることへの恐れに圧倒されていたのだと思います。
それは怒りを表現した後に起こったある記憶のフラッシュバックへの恐れでした。

しかし同じ「怒り」を、今度は粘土を使って、ムーブメントも取り入れながら表現したとき、いっきにこのネガティブだと捉えていた感情を素直に受けとめている自分に気づきました。私の怒りは腹部に抑圧され、行き場のないストレスを感じていたのです。そのすべてを、表現方法を変えるだけで、いともスムーズに、しかも楽しみながら解放できたことは本当に驚きでした。
そして、感じきった怒りを開放したとき、ふと気づくと、その恐れまでも一緒に手放すことができていたのです。とことん、ある感情とつき合うことで、ある意味、気が済むのかもしれません。体験に勝る、開放はない・・というのが、私自身の実感です。

ある受講生は、粘土で象った「自分」を見ても何も気づけなかったけれど、ムーブメントでその粘土そのものに自分自身が成ったとき、はじめてわき出てくる感情と一体になったといいました。ある人は描くことで、またある時は声にしたとき、何かほとばしるように融合そして統合が始まります。
そんな可能性を含んでいるのが、このクリエイティブ・コネクションの面白さなのだと思います。

ファシリテーターの役割

アメリカでの研修期間の中でも一番の収穫となったのは、ワークをプログラムしリードする「ファシリテーター」の役割について学んだことでした。
はじめは、プログラム構成、提供されるワークのユニークさに興味が集まりがちでしたが、次第にワークの内容にとらわれすぎることは、本質的な何かを見失うことにならないだろうか?という疑問がわき上がりました。つまり、プログラムをどうやって組みたてるか?ということばかり気にしていると、それは「プログラム・センタード」(構成中心)のワークになってしまいます。大事なことは、コースを提供し、参加するのはいずれもが生身の人間だということです。つまり、「パーソン・センタード」である必要があるのです。本当に大切なのは何を提供するかではなく、誰と誰がどんな風に向き合うか・・ということではないでしょうか。

そこで、このワークを提供する誰か、つまり「ファシリテーター」の役割について考えてみました。ファシリテーターという言葉は、一般の人には耳慣れない響きがあることと思います。「facility」という言葉には「容易にする」とか、「促進」するという意味あいがあるように、グループのプロセスワークを円滑に進める役割を指します。
ファシリテーターは、何か規定の結果に誘導したり、答えを積極的に引き出すのではなく、今の状態を受けとめて、次なるシフトに向かう手助けをするような役割を担っているのです。

人間関係において、理想的な対応があるように、ファシリテーターにもお手本があるのだろうと模索をするうち、私はこんな風に感じるようになりました。

「そもそも、お行儀の良い人付き合いやお手本などを意識しているうちは、関係を深めたり、真のつながりを育むことなど難しいだろう。十人十色という言葉にすべてが含まれているように、十人の参加者、一つ一つのグループにそれぞれ違ったテーマが存在する。だからファシリテーターは、常に目の前にいる人やグループの、今起こっていることに目をむけ、無条件の肯定的な関心を注ぎ続けるということが大事なのではないか。」

思えば、ごく自然な答えにたどりついたのです。

禅に「一期一会」という教えがあります。初めて人に出会う時、それは一生に一度の貴重な一瞬かもしれません。また同じ人やグループと過ごす時間でも「今あるこの一瞬」は再び経験できないということ。そのことに気がついたとき、自分が何をやるべきか、どう在るべきかということが見えてきました。

「この機会、このグループとの出会いはこの時だけ」

そんな適度な緊張感は、たえず好奇心をそそり、自然と肯定的な関心を生むことができます。そして、自分自身がこの機会を重ねるうちに、危機管理の対応やそこから来る恐れが創り上げるフレーミング(限界設定)を和らげることで、グループをより安全な空間で受け入れる環境を確保することが可能になります。
問われるとすれば、どんなファシリテーションが理想か?ではなく、私が持つファシリテーターとしての個性は?ということになるのかもしれません。

私自身がコースのプログラムを組み立てる時、これまで一回も同じ流れで構成したことはありません。
それは、行う時期や参加メンバーがいつも異なること、また自分のコンディションも含め、参加者の「今」の状態を考慮し構成するようにしているからです。時にそれは効果的であり、時にはアテがはずれるときもあります。
しかしいかなるケースや結果も、それらは貴重な体験となり、ワークをより生きたものにするきっかけとなってきました。それはたぶん私の個性と参加者の個性とが出会うことによってもたらされるものだと感じています。

表現者としての資格とは

ナタリー・ロジャーズが主宰する「パーソンセンタード・エクスプレッシブ・アートセラピー」(通称PCETI)にある「パーソンセンタード」という言葉は、もともと彼女の父でもあるカール・ロジャーズが提唱するカウンセリング理論の軸でもある、クライアント・センタード=「来談者中心」という概念を語源としており、これには相手のどんな表現も尊重されるという意味が含まれています。
それは決して個人の好き勝手な行動を認めるということではなく、ワークの中で生まれたどんな感情も肯定的に捉える用意があるという姿勢なのです。このガイドラインがあるからこそ、参加者は自分の正直な反応を表現するチャンスが得られるのです。

表現アートのコースに参加するうち、次第に自分の個性を大切にして良いのだという当たり前な感覚を取り戻したり、代わりに相手の表現を在りのまま受け入れ、それに対して自分の反応も正直に伝えることが大切なのだということを実感していきます。それはたぶん、このコースが持つ特長でもある、「自我が否定される心配のない安全な空間」が持つ魔法によって導かれる感覚です。

私たちはプログラムを通して、お互いの自由な表現に触れることで共鳴する喜びを体験するようになりました。
まるでエネルギッシュな展覧会に参加しているような気分です。それまで個展を開いて自分の絵を人目に触れさせることなど考えもおよばなかった私が、ワーク中に描いた絵を誇らしい気持ちで白い壁に掲示する心地よさを感じ始めました。誰もが自分の創造性に気づき、誇りをもって見ることができるなんて…。

「絵を描く資格を自分に与えるのは、ほかならない自分自身なんだ!」

絵を描くことをやめようと思いかけていた私にとって、改めて大切なことに気づいた瞬間でした。

表現アートセラピーの未来にむけて

現在は、この表現アートセラピーのコースで学んだ理論をベースに、日本人にむけてプログラムを構成しています。 そこに集まった人のエネルギーにより、グループの個性が表れ、その中でしか得られない体験をします。
その時集まった人たちは、決して偶然にそこに居るのではなく、そのグループが気づきたいテーマを無意識に携えて来るからです。
それが、計らずも最終的に核融合するように、それぞれの深層心理におおきな変化をもたらす現場に私自身何度も遭遇してきました。

ちなみに興味深く思ったことは、これまで参加者が女性に集中していることです。実際、ワークを体験した結果、深い気づきを得られるのは女性が圧倒的に多いようだ、ということは何を意味しているのだろう?と考えてみました。
私が導き出した仮説として、男性と女性を単純に比較した場合、とくに日本においては、女性のほうがいろんな制約や抑圧を受けているということが関係しているかもしれないということでした。
ここ数年、若い層においては、ジェンダーの意識は薄れてきたようにも感じますが、ちょうどこのワークを体験しようと思う年代(30〜50代)の女性達にとっては、数々の制約に規制された過去があったのではないかと推測するのです。その抑圧された感情が吐き出せる場を得たとき、大きな変化への扉が開くのだと思います。また、単純に女性の方が、感情を扱うことに慣れていることも要因の一つかもしれません。ただ、いずれにしても、男性、女性の性差を問わず、人間として生まれ落ちる純粋な感情を安全に表現できる場は、今後ますます重要な意味を持つのではないかと感じています。

これまで表現アートセラピーを通していろんな人との出会いがありました。それは、さまざまな気づきを得ることとなり、私自身の成長に繋がる大きな機会となりました。この出会いに感謝するとともに、今後このようなプログラムが認知され、体験する人が増えることで、それぞれの人達が自分の中の創造性の源を発見できることを願ってやみません。

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