「平たい久高島に、直角に陽が突き刺さっていた。白茶けた耕地。それをとり巻いて、ささくれだった阿檀の林。空は濃く青く、緑はナマ、白い小道がギラギラしている。色、光は激しいのに、物音一つしない。この真空のような風景の異様なひろがりは、ふと小島の中にあることを忘れさせる」(岡本太郎著『沖縄文化論ー忘れられた日本』より)
今から半世紀以上前に、沖縄の地を訪れた太郎は、沖縄の文化に触れ、その洗礼を受けることとなりました。
太郎と久高島との間に起こった当時のいきさつを知る人の多くが既に他界してしまった今、その出来事(事件と呼ぶ人も多い)は風化してしまったかのように見えます。
風評レベルでしか知り得ない知識から、私が久高島や沖縄について論じることはあまりにもおこがましく、ただ私がここ久高で体験したことだけが、私にとっての事実なのだという気持でこれを書いています。
11月のはじめ、久高島を再び訪れた日は、思いもよらぬ土砂降り。びしょ濡れになった私達は「強烈な歓迎だね」と言って笑い、まるで禊ぎを済ませたような気持になったのでした。
やっとの思いで荷物を宿に運び込む頃、陽が照りだし、やがて11月とは思えないほどの暑さがやってきました。『平たい久高島に陽が突き刺さり、空は濃く〜』という冒頭の太郎の言葉は、そのまま私が体感した感覚なのです。
振り返ると、なぜこの地で表現アートのワークショップをやろうと思ったのか、自分でもよくわからないでいました。
この地へ出向くきっかけとなったヒーラーのNさんの力添えに加え、何か不思議な縁に導かれて来たとしか思えない旅がはじまろうとしていました。
沖縄には独特な時間感覚があることから、これを「沖縄時間」または、「ウチナータイム」と呼ぶ人もいます。南国のゆるりとした時間感覚は、日本各地から訪れた人にとっては、癒されもするし、苛立ちにも変わることもあるのでしょう。私は久高に着いたとたん、自分がいつのまにかこの島時間に頭が占領されてしまったように、自然とぼんやりしはじめました。そういえば、はじめて久高に訪れたときにも、同じような感覚になったことを思い出しました。
「あなたを連れて行きたいところがある。明日の朝いらっしゃい」
そうNさんに言われ、ぶらぶらと彼の家を訪れたのは、陽もだいぶ高くなってからのことでした。
同行した皆に「エリさんの沖縄時間はすごい」と笑われながらも、自分ではそんな自覚もないまま、Nさんに案内され行ったところは、現在では忘れられた御嶽(うたき)でした。
御嶽は神のおりる聖所と信じられる聖域として、沖縄地方で古くから守られて来た歴史があります。立派な祭壇が奉られているところと思いきや、ただの原っぱだったり、大きな石がただ置かれているありきたりの空間は、これこそ、自然崇拝の象徴として現代の日本に伝わった貴重な文化遺産だといえます。
そんな御嶽がこの久高島には島中に点在しているそうですが、はじめて訪れた観光客にとっては、その場所への立ち入りが制限されていることすら知る由もありません。偶然立ち寄った所が奉り事の場所であったりすると、島の人に注意をされることもあります。それがまた島人と外界の人との繋がりを作るきっかけとなっているのかもしれません
Nさんに導かれ訪れたその御嶽は、これまで訪れたどの御嶽よりも原始的な佇まいでその気配を残していました。鬱蒼とした木の茂みに石の祠があるだけの空間。琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、まさにその始めとなったその場所は、今では人の足を遠ざけるように阿檀の林の木漏れ日の中にひっそりとした息吹を遺してました。
木の枝をかき分け、草の上に座るとちょうど林の間に海を垣間見ることが出来ます。静かに目を閉じて、その場所の気を感じていると、ふと「対になって座れ」という声がどこからともなく聞こえてきたのです。
それは、まるで男女、老若、天地、明暗というような対極を見なさい、と言われているような気がしました。奇しくも、今回の久高でのワークショップのテーマが天と地、陰と陽をバランスする統合のワークだったので、このメッセージも何か島のスピリットが認めてくれているような気がして、不思議な安堵感を感じることが出来たのです。
久高島は、島全体が一つの御嶽のような所なのかもしれません。
死者の霊を運ぶといわれている蝶をなぜかここでは沢山目にしました。
ある時、十羽以上の蝶が乱舞しているのを目にし、ふとこの地は複数の次元の交差する場所なのかもしれない、といつになく好奇心が沸き立ちます。
そんな不思議な場所に訪れた人々の中には、精神的、身体的にバランスを崩すような、いわば浄化の洗礼を受ける人も少なくないようでした。そんなリスクがあることを予め予測していたのか、参加者の人達は自立しながらも、ちゃんとお互いを助け合い、各々が深く自分と繋がることにコミットしているようです。
コンビニが一つもないこの島での生活は、便利が当たり前になっている内地の人にとっては、ままならないこともあるはずなのに、皆その不便さを嘆くどころか、緩やかな島時間を楽しでいるようでした。
この不思議な波動の地でどんなワークをするか、そのことがここ久高でワークショップをすることを決める時の大きな課題でした。
ワークショップは人々のエネルギーが昇華する祭りにも似ていることから、ここ久高島に古くから伝わっているイザイホーという祭事のことが心に蘇ってきました。イザイホーは、この地で生まれ育った女性が神人となる就任儀礼のことで、現在は様々な理由から行事は途絶えてしまっています。
祭りが途絶えることは、多分スピリットの歴史的には大きな意味があるのでしょう。残念に思う人や、怖れる人、復活を待ちわびる人、様々なのだろうと私は想像を巡らせました。
人間は肉体と、心、そして魂(霊性)が統合した存在です。
しかし、そのことをどこかで忘れ、忘我、亡霊となった時、自己の中心を見失ってしまいます。それは、まるで人が神から切り離されたような感覚であり、それが「恐れ」と呼ばれる状態なのでしょう。
何も否定せず、何も切り捨てず、すべてが繋がっていることを思い出す過程で、人は自ずと謙虚になるしかありません。
「私が、私が」という自己に捕らわれた感覚や、「あの人が、あの人が」と、誰かを否定する気持は、常にどちらかの対極に捕らわれ、つまりそれはバランスを失っている状態なのです。
人が過去の行為(カルマ)を浄化し自己の神性と繋がり、和して集い踊るためのワークをこの地で出来たら…。そんなイメージが、私の心の中に自然と降りて来てくれました。
久高は神と繋がることの重要性について、今ふたたび世界に問いかけていく時を迎えているのかもしれません。今回関わったすべて人が、口をそろえ、和して集まることを願っていることに気づき始めました。
私達のグループが初日のワークをした場所は八角形の形をした集会所でした。そこは、かつて島の唯一の水源でもあったわき水の井戸があった所だったそうです。島に近代化の波が訪れた時、その井戸が閉ざされ、そこに建物が建設されたそうです。島の近代化の波は、古の歴史との間で様々な葛藤を繰り広げたことは想像に難しくありません。
イザイホーが途絶えてしまったことや、古代の叡智を守り受け継いで行くという大きな役割について、島の人々はどのような思いを抱いていたのでしょうか。
「島が私達を歓迎してくれている」そう感じたのは、新月の日の朝や夜に浜辺でワークをした時でした。日中、魂を乗せる肉体を見立てたサバニ(船)を浜で作っていると、強い日差しから守ってくれるように、うっすらと雲がかかり、ワークが終わるとお日様がちゃんと顔を見せてくれました。
そして新月の宵の瞑想をするために浜辺に行くと、11月の夜の浜辺とは思えないほど、暖かく、心地良い風が吹いています。瞑想が始まると雲が晴れ、空には流れ星が飛んでいきました。そんな優しい島のエネルギーにずっと守られるように私達は過ごすことができたのです。
後にNさんが、「みんなが心を一つにして、丸くなって集まったのを見て、神様が喜んでいましたよ」と教えてくれました。
そんな神様の加護なのか、久高の地で繰り広げられた4日間のワークは好天に恵まれ、スケジュール通り完璧なタイミングでワークショップの最終日を迎えることができました。
当初予定していた宿が既に貸し切りだったこともあり、宿泊所や会場を点点としながら、ワークをしなければいけなかったことや、綱渡りのスケジュールの中、何が起こってもおかしくない状態だったことを振り返って、今でも不思議な気持になるぐらいです。
島と人間との波動の調整のためなのか、多くの人が体調を崩していましたが、浄化なのだと誰もが信じていたのか、大事には至らず、皆ワークのフィナーレには感動の涙と笑顔を見せてくれていました。
今あらためて久高の事を思い出すとき、まるで自分が浦島太郎になってしまった気分になるのです。
気づけば、あれから一月の時間が流れています。久高のワークの後、帰ってから東京や鎌倉でワークショップをやっているのに、私の中ではまだあのウチナー時間が根づいてしまったのでしょうか?
しばらくは沖縄のことも、それ以前の旅のことも振り返ることができず、ただ流れに身を任せるように過ごしながらも、幸か不幸か緩やかな時間ばかりではなく、いきなり自分のエゴと向き合わされるような体験をしたりしながら浄化をしているのです。
今は、ようやく流れに抗うことをやめられるようになりました。
そして、これを書いています。
岡本太郎が、久高での時間を「竜宮城に行ったようだ」と言っていた気持がわかるような気がします。
そして、今ただ思い出せるのは、あの島の優しく柔らかい神と木と石たちのことなのです。