アフターコロナ時代を生きる vol.2~自分軸を取り戻す ~

「人間は考える葦である」

これは仏の哲学者パスカルの有名な一節だが、最近、私はこの言葉を頭に思い浮かべては、果たして本当にそうなのだろうか?と疑いたくなることがよくある。

現代に生きる人々は自分の頭で考えないようになってしまった…。そう感じてしまうのは、今や自分で考えなくても、物事の善し悪し、正誤、価値感や美意識に至るまで誰かが代わりに考えてくれる便利な時代になったからかもしれない。

自分でそれらを判断するよりは、誰かの考えに従ったほうが安全だし、面倒なことは起こらない。好き嫌いも、流行の先駆者が決めてくれる。
ただ、それについて行けばいい。

そんな風に思うのは、私の穿った見方のせいなのかな…?

ただ、これまで出会った人たちから「自分のやりたいことがわからない。」「自分は何が好きかわからない。」というような悩みを耳にする事がよくある。それは、自分の感覚に従うよりも、誰かの考えやルールに従ってきた結果のように思えてならない。

それは、今回のコロナ禍の最中も感じたことだが、誰もが当たり前のようにマスクをしていることも不思議で仕方ない。

マスクをすることが常識になってしまうと、マイノリティ(少数派/この場合はマスクをしていない人)は、白い目で見られる。(^_^;)

「マスクは感染予防にはあまり効果がないのではないか・・・」と内心思っている人達にしても、「マスクをするかしないかは自分で判断できることではなく、しないと人に迷惑をかけるからしなくてはならない」という自粛派の正論がまかり通っているのでしたくもないマスクを手放せないのだろう。

実際に感染予防に効果があるかについて誰も議論しないし、不思議にも思わないらしい。本当にコロナウイルスが深刻な感染症ならば、予防法についてもっと議論されていてもいいだろう。しかし、現状は恐れや不安を増幅させる意見や情報が入り乱れるだけで、一向に「消毒液とマスク」以外の有効な予防法は見つかっていない。(あと、意味不明なビニールのバリケードも(^_^;))

それは、主要メディア(TVや新聞)が、それを阻んでいるからだという人は多い。そもそも、早い段階で、インターネットやSNSの間では『実はこのコロナ禍は「パンデミック」ではなく、「インフォデミック)」だ』という情報がたくさん出回っていた。

引用すると、【英】infodemic/インフォデミックとは、ウェブ(とりわけソーシャルメディア)上で真偽不明の情報や虚偽の情報(フェイクニュース)が流布し、これを多くの人が真に受けてパニック状態となり、社会の動揺が引き起こされることである。多くの人達はTVや新聞の情報に操られているが、それに気づくことはない。

マスクをしている人たちの中には、インフォデミックであることに気付いている人も多くいるように思える。そういう人たちはコロナウイルスにかかることが怖いからではなく、人から疎外されることを恐れているのではないか?

もしかしたら、多くの人はコロナウイルスは単なる風邪だとわかっていながら、それについて議論することを避けているのかもしれない。(私はかなり高い確率でそう思っているのだが…)

人間が考える葦なのだとしたら、こんな時こそ頭を使って考えてみることだ。

「自分はどう在りたいのか?」「自分の意志を持つということは何だろう?」

前代未聞のコロナ騒動は、自分達の在り方を改めて考えさせるいいチャンスなのだ。今までと同じように政府やメディアに自分の人生を預けるのではなく、自分が責任をもって自分の人生を満足させるためにできることを、改めて考えてほしい。

つまり、私がここで伝えたかったのは…

時代がどのように変化しようと、その変化が私を変えるのではなく、私は自分の中から起こる変化に従いたいということ。

私は、自分の頭で考え、自分のハートにその真偽を問いたい。そして、自分が納得いく行動をしたいのだ。

こんな風に熱弁をふるっていると、私はまるで社会派のようだが、実はまったく社会的な活動には興味がない。(^_^;) まあ、ある程度の常識や法律など社会の秩序に従うまともさは持ち合わせているのだが、私が大切にしてるのは、自分が自分をどう見なすか?ということなのだ。

私自身、「人が自分をどう見るか」をまったく気にしないわけでもないが、気にしたところでキリが無いし、不自由なのが嫌なだけだ。もしも、そんなことをしていたら、自分の人生の意味づけを人にまかせ、不満を人のせいにして生きることになるだろう。

自分の軸(価値意識)は、自分で守るものだ。それは、人と比べるものでもないし、人から好かれるために忖度(そんたく)したり融通するものでもない。

人間の持つ欲求にはいくつか種類があるが、その中でも承認欲求(人から認められ、愛されたいという欲求)は、自己の在り方を歪めてしまう典型的な欲求である。
承認欲求が強いと、人の目を気にしすぎて疲れ、人の注目を集めることに躍起になり、さらに疲れる。人から嫌われたくないと思うのは自然な反応だが(集団への帰属意識の反映であり、これがないと孤立して、生きることが困難になってしまう)、度を超すとそれはただの弊害となる。

日本人は特にこの帰属意識が強いが、これは戦前まで続いた村社会の掟によるものだと感じる。人と違うことをすると当たり前のように「村八分」にされる時代があったのだ。
それは潜在的に現代社会に根深く残っており、今回、コロナウイルスに感染してしまった人の家に、批難や嫌がらせの張り紙をして住めないようにしてしまったという現象にも見て取れる。

人と違うことで、疎まれたり、嫌われたりすることを恐れて、集団に従属する意識が強まると、当然個性が失われてしまう。自分らしさを表現することなど自殺行為のようなものだ。

しかし、人間はもともとそれぞれ異なるDNAを持ち、本来の個性や使命がある。

その在るがままの自分を自由に表現したいという純粋な欲求を持って生まれているにも関わらず、「社会で生きるためには集団に帰属するべき」という思いに捕らわれてしまうと、(人目を気にすることで)本来の自分との間で葛藤が起こってしまう。

葛藤することに疲れ、自分らしさを自由に表現したいという欲求が無意識下に抑圧された場合、「自分ではない誰かに(または社会に)認められたい」という承認欲求へと変化してしまうのだ。

この承認欲求が強まると、人は自分自身の感覚や歓びを疑い、人の賞賛だけを求めるようになる。しかし、結局誰かに認めてもらったとしても、自分が自分を認めることができないのだから、他者の賞賛にも満足できず、永遠と自分を模様替えしては、また別の承認を探し求めることになってしまうのだ。

これが、自分軸を失った人達の行く末である。

しかし、そんな末路を望む人などいないだろう。

あらためて考えてみてほしい。自分軸とは、自分の美意識を自分できめる力のようなもので、実はこれを持っていない人などいない。本当に満足した自分の人生を生きるためには、誰かに承認を求めたり、誰かの批判を恐れ、自分を抑圧してはいけない。そんなことをしていたら、自分の美意識や好みなどわからない人間になってしまう。

それは、明らかに自分に対する怠慢=罪である。

以前のブログにも書いたが、アドラーの「嫌われる勇気」が人気を博したのは、多くの人々がその功罪に気づき始めたからなのかもしれない。

こんなことを偉そうに書き綴る私自身、長らく自分の感性をどこかで疑ってきた。
でも、もうそんな自分にウンザリし、そんな不毛なことはやめようと思ったのだ。このコロナ禍が私の自意識に拍車を掛けてくれたのだろう。

だから、自戒を込めて言いたいのだ。

自分であるために、わざわざ人から嫌われる必要などない。人を批判したり、または、過剰に褒めたりする人というのは、結局、自分軸がない人なので、むしろ、そんな人達のいうことなど、気にしないようにすればいい。

自分の感覚を信頼し、自分でそれを試し、納得できればいい。自分の「好み」や「美意識」を探求しそれを満喫したらいい。

そして、重要な点があるのでしっかりと理解してほしいことがある。
自分軸とは、自分の才能や美意識や能力のことだが、これを人に渡すこと(人から認めてもらう欲求をもつこと)が危険なのだということ。

どんなに才能があり、自分の好みがはっきりとしていても、それを誰かに見せて褒めて欲しいと強く欲求してしまうことは、自分軸を人に渡してしまうということ。

それさえ間違わなければ、ただ自分の好きを探求し、わくわくを体験することに時間を費やすことができる。それが人生を幸せに生きることなのだ。

人間は、考える葦であると同時に、感じる葦(存在)なのだろう。

人間とは、考え、感じ、それを表現する葦なのだ。

だとしたら、貴重な自分という一本の葦を全うするために、自分の頭で考え、感じたことを表現することが何よりも大切だと思う。

そして、自分で考えるとは、人の意見を聞かないということではない。
自分の考えや感覚が人と異なるように、他者の考えや感覚を尊重することはとても大切だ。
人の意見や情報をできるだけ沢山取り入れて、自分で選択することが「自分で考える」ということなのだ。

そのためにも、まずは自分の感覚を大切にすることからはじめよう。それができていないと、他者の感覚も大切に感じることはできないから。

葦は一本で生えていたら、強風に吹き飛ばされてしまうが、群生することで生態系を保っている。パスカルは、人間を弱い葦に例えたけれど、人間は弱さとしなやかさ、そして賢さをもって生まれてきた。

ならばその才能を活かし、この激動の人間社会を生き抜いてみたらどうだろう。

それがコロナ時代を生き抜く秘訣なのだと、
ワタシハ、オモウ。

(おわり)

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