生きる意味 描く理由

「あなたは誰ですか?」と問われたら、あなたならどう答えるだろう?
無論、こんな不躾な質問をされることは無いかもしれないが、もしもそう人に聞かれたら、普通、名前や肩書きを答えるのかもしれない。

「自分とは誰か?」という問いは、人が大人になる過程で何度となく自分に問いかける質問の一つだけど、そんな時、自分に対し名前や肩書きを答える人がいるだろうか?

「自分探し」という文句はとっくに時代遅れのキャッチフレーズとなってしまったが、やはり人はどこかで自分の存在意義を捜し続けているのかもしれない。

本当の自分、生きる目的や使命、何をやったら自分は満足するのか…。人生の岐路に立つとき、人は自分を、そしてその本質を探しはじめる。

「青い鳥」の物語に象徴されるように、探し求めていたものは身近にある。自分を知るのなら、自分を掘り下げるしかない。

「真我を描く」という、この夏に開催したクリエイティブドローイングのワークショップでは、自己を外面、内面共に見つめることがテーマだった。

ものを描く時に、対象を良く見なければいけないことを知っている人は多い。しかし、どうやって見るか、そして見たものをどのように写し取り描くのかを知っている人は少ない。そのうち大人になると、大半の人は描くことから遠ざかる。ましてや、自画像など描く機会は、望まなければ一生訪れない課題だろう。

人は、対象を見ているようでいて、観ていないことに気づかない。見ていると思っているが、それはほとんど過去の思い込みの鱗(フィルター)にかかった「それ」である。「目から鱗」は、そんな意味からうまれた諺だろう。

絵が苦手な人がタマゴを描くと、ほとんどの人がくっきりと輪郭線を描き、しかもその線はガタガタに歪んでいるタマゴを描く。(スーパーで、そんなにでこぼこしたタマゴが売っているはずもないだけど…)

描いている人に「このタマゴはこんなにでこぼこですか?」と聞くと、その瞬間に間違いに気づく。

見方を教えてると、目から鱗が剥がれ落ちるように、対象がはっきりと見えてくる。しかし、気づいたあとに、どうしたら目の前にある通りに描けないのか解らず、行き詰まってしまうのだが…。

絵の指導を受けるときに「よく見て描きなさい」と言われた記憶がないだろうか? 私自身もそう言われて育ったが、実際にモノの見方や描き方を詳しく教わった記憶はない。それなのに描き続けることが出来たのは、「自分は描けるんだ」という根拠のない思い込みのおかげだった。

目の不自由な人に「よく見てください」とは、誰も言わない。しかし、「自分は絵が描けない」と本気で信じている人は、目が見えていないのと同じなのだ。それに気づいた私は、よく見なさいという言葉は役にたたないアドバイスなのだと気づいた。

歪んだフィルターのせいで、驚くほど多くの人が、自分の顔を見ることを嫌い、自分を否定して生きて来たのだ。すべては、観る大切さと自分を肯定的に信頼する大切さを知らなかったからではないか?

そうだとしたら、ただ見ることを促すのではなく、まずは「観る方法」を伝えるべきだ。対象を、在るがまま、受け入れること。それが、「観る」ということだ。

観ることを邪魔しているのは、その人の偏った価値観や観念だったりする。

だいたい、「自分は絵が描けない」というのも根拠のない歪んだ自己イメージだと言える。しかし、絵が描けないことが問題なのではなく(絵が上手く描けない現代アーティストは山ほど居ます)描けない自分を卑下したり、萎縮してしまうことが問題なのではないか?

絵は描ける。

誰でも、描くステップを間違えなければ、ほとんどの人が写実的に描くことが可能だ。ただ、そこに至る道のりを誰もが苦労なく歩めるかと云ったら疑問だけれど。

しかし、最近私はマインドフルネスのアプローチを体験しながら、観る力が備われば、苦労して練習しなくても描ける力が劇的に上達する方法があることに気づいた。
観ているものを素直に体現することができたら、そしてそこに自分の既存の古い観念が邪魔さえしなければ、誰もがアーティストになれるはずだ。
もし、あなたが本当の自分を知りたいと思うなら、自画像を描くことはとても意味深い体験となるだろう。それも、自分の外面(顔)と、心の有り様を描くと良い。

大抵、作品に満足行かなくて、自分が、どれだけ歪んだ目(見方)や観念を持っているかに気づくだろう。
それは、ほとんどの人が自分の在るがままを否定しているから。

自分のものだと思った顔にしても、自分の本質ではない。それは、ただ自分が所有している肉体の一部にすぎない。そして、名前も、生まれて来る時には持っていなかった代物だ。(皆、誰もが無名の人間として生まれる)アイデンティティも、自己概念も、すべて生まれてから後に培われたレッテルだから。

今回は、ドローイングと同時に表現アートのプロセスを体験した。

自己の内面を探り、形を持たない印象や概念を絵に表した。日頃無意識となって忘れている自分への思い込み(レッテル)を掘り起こして行く。おまけに、知るはずもない魂の姿まで想像してみた。(魂も自分の一部ならば…。)

名前、経歴、性格、イデオロギー、そして身体。
どれ一つ、自分の本質や実体ではない。自分の顔ですら、自分そのものではなく、自分を構成する要素の一つである。
もしかして、自分とはあらゆる要素の集合体であって、自分なんていないのかもしれない…という思いすら浮かんでくる。

大切なのは、在るがまま観ることなのだ。

もしも、あなたが自分の在るがままの姿、心、魂の光を観ることができたら、自分と恋いに落ちるに違いない。

講座がはじまって、朝から晩まで5日間。はじめは、なかなか座っていることが苦手な人も、やがて観ることの面白さを知りはじめたら変わりはじめた。
アトリエの空気は禅寺の道場のように静まり、ただ鉛筆を走らせる音だけが鳴響く。それはなんとも心地良い音とリズム。

参加者達はまるで修行僧のように、自分を真剣に観ることに没頭していくうち、完全な「今、ここ」を体験していた。
在るがままを観ようとするとき、観ていることを忘れ、忘れた時に、その対象「それ」と一体となっている。

鏡の中の自分と向き合う彼等の姿に、李白の残した言葉が折り重なって見えた。

「山と私は共に座り、あるのはただ山だけになる」- 李白

描く自分と描かれる自分との境界が無くなるとき、それぞれの画用紙の中に在るがままの自分が描かれていた。

自分とは何だろう?

答えなんて見つからなくて良い。

見つけるプロセス(経験)さえ楽しめたら、生まれてきた意味はある。

Report 絵が描ける脳をつくる in 北軽 2017

自分を見つめる。自分と出会う。

REPORT 絵が描ける脳をつくる in 北軽 2017

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