テレビを見なくなって何年も経ちますが、それでもたまに訪れた場所で映し出される映像は、かつて見た(まるでそっくりな)事件や事故、不安定な世界情勢を映し出しています。
これは、一体本当の世界なのだろうか?と、あらためて自分の目を疑いたくなります。争いや混乱の最中に在る人にとっては、悪夢であってほしいと願うでしょうし、一方で実は本当ではないかもしれません。
般若心経の一節「色即是空」という真言の意味は広く承知されていますが、この中の色とは現実世界、物質世界のあれこれのことを指します。これが、つまりは「空」=「幻想」と説いたのは、在りとあらゆる物はすべて変化し、形を留めないという理由からでしょう。
この世はすべて空(幻想)だとしたら、私達人間もすべて幻想だということになります。
これは非二元の教えの根本となる概念ですが、どんなに幻想だと云われても、日常生活を営む人にとっては、こうして生きている自分もいるし、昨日洗わずに流しに置いたお皿は、誰かが片付けない限りそのまま変わらず今日もそこにあるのです。
それを現実と捉える心の習性(エゴの癖)が毎日すべての物を断片化(分離)させているのです。
それが、偏った思考であり、繰り返されるパターンによって生まれる観念です。
観念は、物事を限定的に捉え固定させてしまいます。観念の多い人は理屈を好み、その理屈にそぐわない考えは、自己の物であれ、他者のものであれ対立し否定して行きます。つまり、成長し新しい考えを採用したい自分とも対立するし、「異なる思考や個性の人を疎外しようとする習性」が生まれてしまいます。これが世界に起こる紛争の種となるのです。
ここで観念の構造について考えてみましょう。
例えば「カラスは黒い」というのは事実ではなく観念です。私達は、黒いカラスしか見たことがないので、カラスといえば「黒い」というイメージを抱いてしまいます。
実際には白い色をしたカラスは存在していますが、極端に数が少ないことから多くの人が知っている事(黒いカラス)が事実になり得てしまうのです。
そして、さらに観念は限定され深まって行きます。それは「黒」という色の持つ印象です。日本では特に黒は喪に服す色とされ不吉な色という印象が一般的です。そこで、カラスはどちかというとネガティブなイメージを植え付けられてしまいました。
ある時、メディスンホイールというネイティブインディアンの伝承の智恵をテーマに内なるソースと繋がるというワークショップの中で、トーテムアニマル(守護動物)のカードを引き、その動物が持つメッセージを受け取るために、ある人が引いたカードは「カラス」でした。
すると、すぐその人は不吉な予感を受け取ってしまい落胆してしまったのです。しかしネイティブインディアンの叡智によると、カラスは叡智のシンボルとして知られています。聡明さや賢さ、智恵をその力とするカラスはネイティブの人々に愛される存在なのですが、日本人の彼女にとっては、そのようには感じられないのですが、やがてカードの持つ意味を知った彼女は、新しい観念を獲得し、それを自分の成長に繋げることができたのです。
これは、観念を書き替えに成功した例ですが、いつまでも制限されたネガティブな観念を捨てきれずにいることは多いのです。
集団の中で、すべての人が同じ観念を持つならまだ良いのですが、育った環境や条件によって異なる考えを持つ人がほとんどです。
そんな個別の思考パターンを持った人間が集まる社会において、楽々と人と理解しあったり、協力しあうことは困難を極めています。それが「異なる思考や個性の人を疎外しようとする習性」によるものです。
では、そんな習性を持った私たちにはそんな対立する未来しか残されていないのでしょうか? これまで、そんな集団を統括しコントロールするのは、協力なリーダーシップでしたが、成長する社会は新しいアイデアを見つけ出すことを模索し続けてきました。
そこで見いだされた新しいグループへの関わり方が、ファシリテーションという方法です。ファシリテーションとは、グループによる活動が円滑に行われるように支援するという意味をもっており、これを行う人のことをファシリテーターといいます。
私がファシリテーターという言葉を知ったのは、表現アートセラピーを学び始めたころのことです。 今では、誰もが知っている肩書きですが、当時は耳慣れない響きにとても興味を覚えました。
ファシリテーターは、リーダーでもなく、先生でもありません。グループに対し、何かを決定したり、特定の目標に向かわせる権利も持っていませが、時には集団をリードしたり、助けを促したり、介入をすることもあります。そのスタイルは様々であり時にはまるでリーダーに近い存在として集団を支える役割を担います。
ファシリテーターの唯一の目的は、グループの意図を成功させることにあります。もちろん、そのグループにとって何が成功かを知る術さえ見つからない時もありますが、その答えを共に探し、そこへの道筋を探るために協力するのがファシリテーターの役割でもあります。それは、リーダーが己の意志を完結するためにグループに協力を仰ぐこととは相対的な立場だと言えます。
表現アートセラピーのワークショップでは、一つのテーマに沿ってグループに参加した各人がそれぞれの課題を持ち寄ってプログラムが進行していきます。ワークのテーマは答えではなく、材料のようなものです。その材料を使って、それぞれの人が何を思い、何を体験するかは、誰にも解りません。しかし、その中で最良の気づきや純粋な体験をさせるために私たちファシリテーターがやるべき基本の一つは、「在るがままの自分で在ること」なのだと感じています。
「在るがままの自分」は、「こうあるべき」もなければ「これでなければいけない」もありません。 目の前に起こる出来事はすべてプロセスだと捉え、それを善し悪しで判断せずに、直感を頼りに進む言わば、場当たり的な感性を求められるのです。
もしも、ファシリテーターが既成の概念に捕らわれ過ぎて居たら、新しい扉や可能性を見つけることはできないでしょうし、グループや各人が抱える幻想のドラマや観念を見抜くことはできません。
そんな意味で、ファシリテーションのトレーニングでは、知識を付けることよりも、観念を外し、内なる源と繋がりより自由に存在するスキルを学んでいくことが優先されます。
そうしていく道のりの中、やがて自分の中の自意識過剰なエゴが崩壊していく課程を体験するのです。実際、自分の意志と通したいとか、自分が秀でたいというエゴを解放し、在るがままの自分として、グループの為に存在することを望むようになります。
だからと云って、自分を失うということとは異なるので、表現としては難しいのですが、自分が一番自分らしくいることが、参加者にとっては楽なことなのだと理解しています。こうして、何年もファシリテーションを担当させてもらったことで、私自身は、混乱する個性(自分も含め)をすべてニュートラルに捉える技能を磨くトレーニングを積めたような気がします。
集団の中で、誰かが秀で、特別となり、凌駕することは、共生する世界を創ることにはなりません。誰もが(誰一人例外なく)自分らしく、自由で満足する世界を創ることは、きっと誰もが抱く望みでしょう。しかし、それに至るためには、まず自分の内なる世界の中にある紛争(葛藤)を見つけ、それを解放する必要があります。
それを辿る道のりの中で、ファシリテーターは先ず自分の内的な混乱を沈め、自分を理解し自己否定をやめて、完全に自己を受容する必要があるのです。
ファシリテーターになるための特別な能力や資格など多分必要は無いと私は思います。あるとしたら、在りのままの自分を認めたいと願う気持ちや決心は大切な要素となるでしょう。半世紀を生きて、いろんな職業に就いて来た私ですが、多分もう一度生まれて来るなら、ファシリテーターになりたいと思えるぐらい、この役割は面白いのです。やればやるほど自分の未熟さを感じるのですが、不思議とそれは落胆ではなく、意欲を駆り立てられる要素となっているのも継続して来られた由縁でしょう。
混迷を強める未来の世界に向けて、私達は自分をファシリテートしながら、集団やコミュニティの中で、どのように存在するかを問われているような気がします。
最近は日本でも、企業や学校でファシリテーションの理論を採用するところが増えてきました。
これからの社会で、教師やリーダーシップを取っている人、これから取りたいと願う人がいたら、「サーバント・リーダーシップ」について学ぶことをお薦めします。
サーバント・リーダー(servent leader)とは、その名前の通り、「集団に奉公するリーダー」という意味を持ち、その役割はファシリテーターのそれと共通する部分が多いことに気がつきます。
リーダーは、集団あってこそ存在できる役割です。 自分と同じくらい大切な各個人は集団という全体性の中の一部(断片)です。しかし、その断片〜各個人は、集団という全体性から切り離されて存在することは不可能です。
自分の心の中で抑圧されたり、分裂する部分が在る限り、私達は自分とも、そして他者とも和合することはありません。
真の幸せを願うすべての人たちへ。
誰もが内なる分離の統合にむけてチャレンジすることを願っています。
※ファシリテーター講座は2年ぶり、更にバージョンアップした内容で再開します。みなさんの参加をお待ちしています。