三位一体。 キリスト教の概念から生まれたこの言葉。
昔、中沢新一の「三位一体モデル」という本を読んでひっかかっていたことがあります。
三位一体とは、神の3つのペルソナであるという説もありますが、詳しくは秘儀だそうで、キリスト教を学ぶ人も神髄を説明出来る人は少ないのだとか。そんな秘儀について、中沢さんが大胆にもユニークなアイデアを展開しているのが「三位一体モデル」ですが、そこでは、父=普遍的なもの。子=精神の媒介者。精霊=子の働きにより増殖するアンコントロールな存在、としています。
このモデルを基盤にして、社会、経済、芸術などの世界を当てはめて考えて見ると、なるほどいろんな視点で世界観が変わる、という感じです。しかし、正直、当時の私にとっては「だから何?」という消化不良の一冊でしたが(内容が私には難しかったようです。苦笑)唯一、ネーミングだけが残りました。ただ、世の中がこのような混乱に至っている原因の一つであるかもしれないのは、父(父性)の喪失にあるような気がして、(母性も喪失しているような…)父の存在が普遍的な叡智やルールだとすれば、納得いくところも沢山あるのです。
三という数にはいろんな意味がありそうです。カバラ数秘術では、「表現」という意味を表しています。その他、色の三原色とか、三権分立とか、三色ボールペン?とか、三度目の正直とか、いろいろ引き合いに出される数字です。
さて、その三にちなんで、今回のワークのテーマは魂・精神・肉体という要素を改めて統合してみようという少しばかり大胆な発想。
結構、この三つ巴の有り様が、私はなぜか好きで、何度か同じテーマでワークショップをやっています。
プログラムの内容はその都度変化するのですが、その時に参加した人のエネルギーもその変化の一端を担っています。
相変わらず、参加者の人達はいつもユニークで、創造性豊かでした。
その発想力はつねに私の予想を超え、想像もできない答えを差し出されるようなドキドキした気分になります。
エネルギーといえば、魂・精神・肉体はすべてエネルギーで出来ています。唯一、個体である肉体も原子構造から言えば、精神と同じ波動なのだそうです。その実体とも言える肉体は、いつしか<死>という終焉を迎えますが、魂には終わりがないというイメージがあります。
そんなわけで、実体の無いもの、在る物、こもごもしたテーマですが、「内容は実生活に根ざすものとしたい」というワーク本来の意図がありました。スピリチュアルは好きな世界ですが、実生活に根ざさないスピリチュアルは有害なのでは?とも思えます。では、実生活に根ざすスピリチュアルとは何でしょう? 私自身がイメージするのは、形而上学と形而下学との接点みたいなものでしょうか。
以前、リサ・ランドールというアメリカの科学者が「五次元は存在する」という見地から研究した学説(ワープする宇宙)が注目を集めました。スピリチュアルな世界では当たり前のように語られる5次元を物理的に立証しようとすると、こんなにも多くの定義が必要なのかと、ため息が出てしまいますが、その挑戦にはワクワクしたものがあります。頭が良い人は、思考のパワーを使って、そうとうな理解を深めることが出来そうですが、私たち一般人としては、単に信じることで着地してしまうお気楽さがパワーとなっているのかもしれない…。
信頼という意味で言えば、私達は日常生活の中で、魂や霊などの存在を忘れてしまいがちですし、身体というツールについても無視しがちだったりします。唯一、思考先行で生きるものですから、いろんなブロックにぶつかってしまうのでしょう。
そんなとき、この三位一体のこと、思い出してみてください。
私たちの本質が何なのか?を問い直すきっかけになるかもしれません。ワークショップでは、日常の中で問題にはまり込んでしまう要因となっている、思考が生まれる観念パターンについて掘り下げてみました。思考そのものが悪いわけでもなく、感情が即ち悪人ではありません。ただ、それらがネガティブなパターンに陥ってしまうことから、三位が分離・分裂してしまうのです。
魂・精神・肉体というそれぞれのモジュールについて、在りのまま感じてみることで、それらが単なる媒体にすぎないことを気づかされます。魂ですら、<無>という、大いなるすべてのものを媒介する存在に過ぎないのです。
そう、形而上学と形而下学の接点とは、「迷い」でしょうか。中心は常に迷いの在るところです。迷うからこそ、「何かに答えを定めず、流れることを提案すること」が、このワークでしてみたいことでした。
一つだけ、すべてに共通する考えがあります。それは、すべてが移ろうものだということ。すべて永遠なる物は存在しません。ただ、流れるだけ。そんな考えが、すべてを統合することができる知恵なのかもしれません。