聖書に「天に富を積む」という言葉がある。
これはご存知の通り、神様にお金を払うのではなくて、「奉仕(徳を積むこと)をしなさい」という意味なのだが、この富と徳を上手く組み合わせたことで、人類は複雑なゲームに夢中になりはじめたようだ…
「富」とは辞書を引くと「多大な財産」とか、「価値ある資源」と説明されている。
そういってしまうと「富」=「お金」という印象を受けるけれど、私にとって、お金そのものが「豊かさ」に結びつくことはなかった。とは言っても、お金が豊富にあれば、豊かな気分になることも確かだ…。
この秋【Soul Money WS in 北軽 2017| 豊かさの真実を知る~自己価値を高めるプロセスアートワーク入門】というタイトルのワークショップを開催した。これがとても面白かったのでご紹介したい。
このワークショップをやろうと思ったきっかけは、20年以上前のバブル時代に購入した高木悠鼓さんの「楽しいお金―どんなときにもお金と楽しくつき合うために」という本だった。
はじめて読んだ時、お金をどうやったら作り出せるのか興味があって読んでみたけれど、ピンと来なかった記憶がある。ある日、久しぶりに再読してみたら、当時にはない気づきがあって驚いた。
「お金はとても面白いテーマだ。」そう思ったら、さらにお金と豊かさについてもっと掘り下げたくなり、やがてプログラムができあがった。
長年、ワークを開催してきたけれど、「お金」をテーマにしたワークショップをやってこなかったのは、私自身が豊かさやお金に対してブロックを持っていたからなのだとプログラムを作成する中で気づいた。蓋を開けてみれば、そのブロック崩しは、予想外に面白く、エキサイティングな体験となった。
それにしてもお金って、不思議なものだと思う。
ただの紙切れ(と言っては失礼ですけど…)なのに、多くの人が「お金」に翻弄されているような気がする。
私自身、お金にまつわる様々なトラブルに出会った経験がある。お金を巡って人間はこれほどまでに心を失ってしまうのかとビックリした出来事や、肝に銘じた体験などだ。幸い、奪う側や裁判などの闘争に巻き込まれることなく、傍で見ていて学ばせてもらった。
お金がそんなふうに人間の心を奪ったり、興味を引きつけるようになったのは、お金そのものが、豊かさや権力の象徴となってしまったからなのだろう。
また、お金に執着する人と、お金を毛嫌いする人に分かれるのも面白い。大抵の人が大っぴらにお金の話をすることを避ける傾向があるのは、お金の持つ魔力を恐れているからなのかもしれない。
特に、精神世界や援助職の人にとっては、お金はけっこうタブーな存在となっている。たとえば、「スピリチュアルな人は、お金などの物質的なものに捕らわれてはいけない」とか、「援助は無償で行うのが素晴らしい」とか良く耳にする。
そういう観念に縛られている人が多いためか、未だにボランティアで奉仕をするヒーラーやカウンセラーが多い。
しかし、彼等はどうやって生活すれば良いのだろう?これは、仏教に帰依するとき、すべての財産をお布施したり手放したりする風習にちなんでいるのだろうか?
清貧という思想の影響なのか、どこか「金儲けは汚い」とか、「お金の話は下世話だ」という印象が定着しているように思える。
一方で、スピリチュアルなセミナーの講習費や開運するというパワーストーンがびっくりする値段だったり、どこかの宗教に入ったら、目が飛び出るほど高額な壺を買わされたという話が珍しくないのも何かアンバランスな話だと思う。
それにしても、お金にいろんな形容詞が付くのは何故だろう? お金にポジティブやネガティブという側面があるわけでも、汚いお金や、きれいなお金があるわけではないはずだ。お金とは、中立的なものであり、交換の手段であり、便利な道具なのだ。
貨幣の歴史を辿ると、通貨が現れたのは、紀元前20世紀にまで遡る。物々交換がやがて売買の手段に変化していく過程で通貨という貨幣が誕生する。現代において、お金とは「価値あるものと交換するための道具」となった。
その価値あるものとは、個人差がある。場合によっては、「お金」=「豊かさ」=「価値」だと考える人もいる。
清貧を貫く人だって、豊かさを否定しているわけではなさそうだ。マザーテレサだって、寄付された車を賞金に宝くじを発行した逸話もある。(マザーは、その資金を施設の経営に充てたそうだ)
さて、話がついお金ばかりに集中してしまったけれど、ここで豊かさについて改めて考えてみたい。
「豊かさ」とは、何だろう?
「豊かになりたい」という欲求は、人間の根源的な願望だと言える。本来、人間の本質はリソース(内なる資源)に在ると言う。だとすれば、不足しているものを求めるというよりも、持っているものを放出し、表現していくことが本質に近い生き方なのだろう。
しかし、その本質を忘れ、不足感から求めた場合、自らの本質を否定し、不足の自分を体現することになってしまう。もしも、豊かさを歓迎するならば、一番先にやるべきことは、自らの内側を探ることなのだ。
ワークショップでは、そんな潜在意識に隠れてしまっているお金に対する怖れや執着、そしてパワーや愛の代替品となったお金への観念をくつがえすためのエクササイズをやった。すると、思いがけない信じ込みや、忘れていた記憶がいくつも飛び出してくる。
「ビックリだ…、自分がこんなことを信じていたなんて」と誰もが思う。それくらい、豊かさへの怖れや、お金に対するネガティブな観念は、私たちを蝕んでいる。
多くの人が、わかっていても手放せない無価値観をかかえているのだ。
豊かさは、自己信頼や自己価値観と深く関係している。自分で作ってしまった「不足」という幻想の壁を崩さない限り、豊かに人生を送ることは難しい。
どんなにお金を手に入れても、自己価値が無い人にとっては、それ自体が「両刃の剣」となり得る。
つまり、お金を持っていても、無価値感という根深いコンプレックスがあることに気づかない人は、豊かさを感じることは出来ない。
一方、お金を持っていない人達は、無意識になっている無価値感を、「お金がない」というコンプレックスにすり替えてしまっている。それは、「お金さえあれば、自分は…」という叶わない夢(ストーリー)を見続けることで、絶望的な無価値感から目を背けるためなのだ。
それでは、どうしたら豊かになれるのか?
その答えは、繰り返しになるけれど、自分の中の豊かさに気づくことが最短の道だと言える。
それに気づくためには、自分の中のコンプレックスや無価値感を認める客観性と勇気を持つことが必要だ。
ワークショップの中でも紹介したこんな言葉遊びがある。
MONEY is My Own Natural Energy Yield
お金とは、私自身の自然なエネルギーの産出だ。
MONEY お金とは:
(M)y 私
(O)wn 自身の
(N)atural 自然な
(E)nergy エネルギーの
(Y)ields 産出
つまり、お金は自分のリソースの現れだという。
だとしたら、お金を欲しがる必要も、拒む必要も無い。
ただ、その便利な道具を大切に楽しめばいい。
自分の価値を在るがまま認め、それを世界に表現することで富が生まれる。
これが、宇宙における<豊かさの法則>だ。
法則を生きるためは、自分を在るがまま愛し、自由にさせてあげることだ。この3次元の物質世界の中では、しばらくはお金は役立つだろう。自分を成長させて、楽しいことを体験させるためには、自分を深く知り、お金や豊かさの本質について学ぶ事が役立つ。
自分の中の無限の豊かさに気づいた時、もはやお金のことはあまり気にならなくなるし、トラブルも起こらなくなる。本当に好きな事をして生きる覚悟ができる。
想像してほしい。もしも、世の中が自己価値を認めている人ばかりになったら、どうだろう?たぶん、今のような資本主義の経済システムは崩壊し、新しい分かち合いの世界が生まれる。その時、誰もが真のライフワークを見つけて生きる始めるだろう。
そのために、準備などいらない。心配しなくてもいい。ただ、そう生きると決めた時、あなたの豊かな人生が始まる。