春の息吹を匂い感じると、切なさがわいてくる。
毎年、桜の季節になる頃に、専修講座の修了式を終えるのが慣わしとなり、気づくと17年の年月が流れていた。
今年も、散り終えた桜の花びらが舞う代々木の道を歩きながら、切なくなるのは、時の流れやその儚さを思うからかもしれない…と思うのだった。
コロナ禍にもかかわらず、今年も無事に最終回をむかえられたことを宇宙や神様に感謝しつつ、この十数年の年月の間に出逢った人々のことを思った。
時間がこの3次元に発生し、この世界を象っていると考えるのは、人間の錯覚(概念)に過ぎないのだが、所詮、人間とはその真理を理解することも出来ず、ただ移ろいゆく時の中に何かを求め、彷徨いつづけている存在なのだろう。
それでも私が、その儚さに生きる価値があると思えるのは、移ろう時も味わいや美しさを見いだせるからなのだ。
毎年、専修講座で出逢った人たちとの間に紡いできた絆は、今では織物となり私の心の中に敷き詰められた絵巻物(Time Line)となっている。
そんな彼らと過ごす半年間の経験を十分に味わい消化するためには、更に半年の月日を要する。
講座の中で記録された膨大な写真を整理する間もなく、気づくとまた新しい命達との出逢いが始まっている。
そうして過ごすうち、いつしか春は感慨深い季節となり、日々折り重なるように記憶の中に織り込まれて行くようになったのだろう。
<表現と創造>という素晴らしい体験を
宇宙は私たち人間に与えてくれた上に
表現アートをファシリテートするという貴重な機会を
私に与えてくれた。
魂の表現者達は、時を忘れ、
いまここに、在るがままの命を燃やすことだけに夢中なのである。
彼らの息吹を胸に吸い込む時、言葉にならない感動を感じる。
私にとってこの仕事は、労働ではなく、表現者という美の神々に仕える厳かな勤めであり、幸福な時間といえるのだ。
その時も桜の散るころ、終わりをむかえる。
私にとって春とは、そんな切なくも味わい深い季節なのだ。