この原稿を書いている今日「3月11日」は、忘れもしない東日本大震災が起こった日。
2011年の早春、東北地方は壊滅し、絶望的な悲しみに日本中が包まれていた。
あれから時が流れた9年目の春に、日本はまた別のパニックが起こり震撼させられている。
「あなたの世界の終わり」というタイトルは、アジャシャンティ(Adyashanti)というノンデュアリティ(非二元)の教師が書いた本の名である。
廃墟と化した武漢の街の映像は、この世の終焉を彷彿させ、パンデミックへの恐怖に日本のみならず、世界が凍りついた。
新型コロナウィルス騒動が起こってからというもの、日ごろ縁遠いネットのニュースを見るのが日課となったからだろうか、日に日にモヤモヤとした複雑な心境が高まってくる。
マスクやトイレットペーパーを爆買いする人。
苦労して買った商品をなんと、カートから盗まれてパニックになっている人。はたまた、オークションでは、マスクを高値で売りさばく県議会議員が現れたと思ったら、朝鮮人学校にだけマスクを配らないという地方自治体による暴挙には唖然とするしかない。
まるで、地球規模の仁義なき戦いが始まってしまったのだろうか?
そんなストレスからか、政府を批判する人々やマスコミの記事が目につき、更に情けない気持ちが加速する。
なんか、変だよね…。
日本って、こんな国だったっけ…?
私の記憶違いでなければ、震災の時は、もっと過酷で逼迫していたにもかかわらず、人々は不足する物資を譲り合い、分け合い、秩序を守りパニックを最小限に収める理性を保っていたではないか?
震災当時、情報の命綱となったSNSの存在が、今やデマの拡声器となってしまったようだ。
不安からなのかもしれないが、多くの人が根拠のない情報を確認もせず拡散し、それに飛びつく人が後を絶たない。
「お湯を飲んだら効く」というデマは無害だからいいが、中東ではアルコールが新型ウイルスに効くとのデマを信じた人がメタノールを飲んで27人が死亡したそうだ。これでは、無責任に怖れをあおって、お互いに正気を失っているいるようにしか思えない。
そんなある日、ふと連日ドラッグストアに行列している人達をみて、妙に懐かしい(とは云っても、楽しい思い出ではない)光景がよみがえった。
昭和のオイル危機の時のことだ。殺気立った母親が、戸棚一杯にトイレットペーパーを積み上げているのを見た私は、子供心になぜそんな沢山の(約1年分?)「ちり紙」が必要なのかがわからなかった。多分、そのトイレットペーパー群(腐らないからまあ良いが…)は、その後、余剰在庫となって収納スペースを奪うだけの代物になったのだろう。
昭和から平成、そして令和
(ああ、私はすでに3つに渡る元号を生きて来たのか…トオイメ)
半世紀経った2020年は、SF映画に登場するような科学的進歩を遂げている未来を迎えているはずだった。
だが、私が今経験している2020年の在り様を見ると、確かにインターネットやスマートフォンがこれだけ普及し、情報社会はめざましい発展を遂げているには違いないが、その恩恵を預かっている人が(自分を含め)見当たらないことが不思議でならない。
半世紀前はオイルショック、現代はコロナショックで紙不足とは…。科学や機械だけが発展しても、人間は学習、成長していないということなのだろうか?
前回まで、シャドウについて紹介してきたが、最近の騒動を目の当たりにしていろいろ気づくことがあった。
まず、これだけ多くの人が怖れ、怒りを爆発させているのは何故なんだろう?と不思議になった。
この事態(日本でのウィルスの蔓延)に対し、日々、ネット上では政府(安倍政権)の対応を批判する人々が急増している。政権の支持率は、この騒動のお陰で急落、この勢いが収まらなければ政権交代にも繋がりそうな勢いだ。私もどこかで政権交代が成されるなら、コロナショックも無駄では無かった…などと思うほど現政権に落胆していたのだが、あれ? これが例の<シャドウ>なのでは?と嫌な予感がした。
特権濫用、既得権益体質の官僚や政治家達を自分のシャドウ(分離した自己の一部)だと認めたくな私は、どうにか、彼等の矛盾や利己的な面を批判していたが、ふと先のトイレットペーパー騒動を思い出した。
自分達はどうなのだろう? 必要だという理由で、物資を買い占める中国人を批判する日本人は自分勝手ではないのだろうか?「無能で、エゴイストな政府」は、私たち国民にとっての巨大なシャドウなのではないか?
そう自分に問い詰めてはみたが、
「いや、私はマスクを爆買いしなかったし…」
「トイレットペーパーは人に分けるために買っただけ…」と、とっさの自己弁護がはじまった。
余裕があるときは、呑気にしていられるが、もし切羽詰まっていたらどうだろう? トイレでペーパーが枯渇してパニックになったらどうする?
砂漠で水が無いときに、持ってたペットボトルの水を誰かに分けてあげられるだろうか?
それをしない自分は、利己的じゃないと云える…?
私たちは、大なり小なり、自分が大切なのだ。
しかし、そんな「小物」の自分など見たくないし、問題にぶつかったら、その答えをひねり出す面倒はごめんだと責任を押しつけたくなる。
そんな都合の悪い自らの体質を誤魔化していると、やがて無意識の鍋の底で灰汁のようなシャドウと化してしまうのだ。
シャドウとは、程度が違う相手を批判しているうちは、そのからくりには気づけない。極悪人を邪揄する子悪党のように…。
相手や何かを批判し、否定していううちは、心に平和などやってこない…。
安心したくてニュースを見ている内に、まんまと、影(シャドウ)の陰謀に操られていたのだ。
「人の振り見て、我が振り直せ」とは、難しい注文なのだろう。
誰かのことを批判するのは、簡単で責任ないから、ついやってしまう。誰もが、この騒動に辟易し、誰でもいいから解決してほしいと願ってる。
多くの人が、リーダーを見失い、彷徨い苛立っている。
しかし、それが依存的で無責任なのだ…。
選挙で、新しい頼りがいのあるリーダーを選出する前に、自分達に出来る事はないだろうか?
総理大臣でなくとも、自分に出来る事があるのではないか? 誰かを批判している閑に、出来る事はないのだろうか?
一連の騒動を静観しているつもりが、傍観していたことに気づき、胸がザワザワした。
私はこの状況から目を反らしてはいけない。
…そう、思った。
まずは、行動する前に自分の考えを整理し、状況を把握してみよう。
そもそも、なぜこのウィルスがこんなに脅威なのだろうか? 調べて見ると、この新型コロナウィルス=正式名称 COVID-19 の特徴がぼんやりと見えてくる。
Corona騒動が始まった当初、不慣れながらもネットの情報をチェックするようになると、自然に関連の情報が集まってきた。そして、それらは日々刻々と変化しているようだった。
もう、多くの人が拡散された情報を手に入れていると思うけれど、コロナウィルスCOVID-19は、2003年に猛威を振るったSARS(これもCoronaウィルスの一種)やMERSよりも感染力や致死率が低いとされている上、季節性インフルエンザより毒性は弱いという専門家の見解が大半を占めている。
厚労省の統計によれば、過去インフルエンザで亡くなる人は毎年3000人以上(インフルエンザが原因の合併症で亡くなる人は1万人以上)に上り、昨年の1月には、ひと月で54人もの人が亡くなっているのに、報道されることは無かった。
アメリカでは、2020年1月半ばになって急にインフルエンザが猛威を振るい始め、今シーズンのインフルエンザの患者数は合計で2200万人、死者は1万2000人に及んでいることをご存知だろうか?
一方、日本において新型コロナウィルスで亡くなっているのは(3月11日現在)16名で、その多くが老人や合併症を起こしやすい人に集中しているにもかかわらず、これだけ多くの日本人が<怖れ>から解放されるどころか、常軌を逸した行動に走っていることのほうがよっぽど非常で恐いと私は思う。
すると、こんな記事が目にとまった。
この記事を読むと、前述した私の疑問が解けてくる。
私たちが怖れなければならないのは、コロナウィルスの細菌ではなく、社会で起こっているパニックの方なのではないか?
Coronaウィルスとは、風邪ウィルスの一種だという。
風邪に脅威を抱く人は少ないから風邪薬の特効薬の研究者も少なく、ワクチンの開発が遅れているという専門家の分析もあるが、今回のウィルスに関しては、人工的に作られたという陰謀説も手伝い、謎は深まるばかりで、不安を払拭することができない。
しかし、専門家でもない自分がこんなところで頭をひねっても仕方ない…と、ハタと気づいた。
ウィルスの知識は無いが、人間の脳の機能や性質、心の構造についての知識なら少しばかりあるので、そちらを探ってみることにしよう。
すると、一つの光明が見えはじめた。
~つづく
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