罪収火

冬至を過ぎたクリスマスイブの日。
昊の怒りが鎮まるように数日間続いた風が止み、今年最後のワークショップがはじまりました。

1年中で、一番闇が深くなるこの時期にいつも私達は、冬至にちなんだワークショップを開いているのですが、今年のテーマは女性性の解放でした。

女性性と聞くと、母性や女らしさをイメージする人も多いかもしれませんが、女性性のエネルギーは、元々男性にも女性にも備わっているものなのです。 

女性性のマイナスエネルギーの象徴として、引力や受容の力があります。マイナスにはどこかネガティブなイメージがつきものですが、「引っ張る」ことや「受け容れる」こと自体はネガティブなことではありません。
むしろ、受け容れることができたら楽になることはたくさんあるのです。

ただ、このマイナスがネガティブに働くと、執着や我慢、犠牲という波動に変化してしまいます。

その典型的な波動に「罪悪感」という感情があります。日本人にとって、この罪悪感は馴染みのある感情でもあり、意識的また無意識に抱えこんでいる人が多いのではないでしょうか?

自分の罪を追求する言葉に、良心の呵責というのがあります。なぜか、この良心を持っている人ほど、罪を背負ってしまいがちなのです。(真面目な人ほど、この罪悪感を手放せない人が多いようです。)

罪を犯して反省していない人を見ると、罪の意識を持っていないことに腹を立てたりする一方で、罪を犯してしまった人が酷く自分を責めているのを見ると、同情したり、道徳心のある人だという印象をもったりすることもあるのです。

罪の意識は感じるべき。
自分の罪を罰するべき…。

果たして、そう感じることは美徳なのでしょうか?

しかし、これが間違った捉え方であることを知ったとしたらどうでしょうか?

実は、罪悪感とは、最悪な精神作用の影響力をもっているのです。

罪を犯したと感じている人は、罰せられるべきという思考に捕らわれがちなので、結果的に罰を恐れながら、自分を責め続けている波動を、四六時中体験しつづけているのと同じこと。

罪悪感と恥が、感情の中でも最も波動が低い感情なのだと、波動学者の著書*で知ったとき、なるほどな…と、納得が行きました。

*D.R.ホーキンズ著「パワーかフォースか 改訂版 ― 人間の行動様式の隠された決定要因

もう一つ、罪悪感について多くの人が思い違いをしていることがあります。

罪悪感を持っている人とは、責任感がある道徳心のある人ではなく、実は、罪を償う責任を放棄している人なのです。

罪を犯したら、謝ったり、償うことに一途に取り組めばいいのに、それを怠っている状態だということに気づいていません。

つまり、罪悪感という美徳が、罪を償うことへの免罪符になってしまっているのです。

たとえば…、あなたが急いでスーパーで買い物をしている時、謝って商品を倒してしまったとします。ゆっくり並べて戻したいところですが、急いでいるから今日は仕方ないっ!と思い、そのままにして来てしまったとしたら…。
その瞬間、胸がチクッとして、良心が問われてしまうかもしれません。 ただ、2~3分かけて元通りにしたり、お店の人に謝って頼んでくるだけで、心にわだかまりは消えるはずですが、それを怠ることを正当化するために、罪悪感を使うのです。
つまり、謝罪したり、責任をとるよりも罪悪感を抱えていたほうが良いという論理です。

しかし困ったことに、この免罪符はいつしか十字架に変わってしまうのです。

ただ、心の痛みだけが残るだけなら良いのですが、自分を責める自分は居なくなりません。つまり、罪を償わせるため、自分に何らかの罰を与える不都合な現実を引き寄せてしまったりするのです。

なぜなら、無意識の自分は、自分に罪を償わせたいのですから…。

ちょっと変な話ではありますが、人間の心ってこんな風に不可解な働きをするのですね。

良い人が、理不尽な問題に巻き込まれたり、不条理な災難に出会ってしまうのは、このような精神活動が原因になっていることが多いのです。
もちろん、証明はできませんが…。

でも、思い当たりませんか? 何も悪いことをしてないのに、罰みたいな出来事があったりするとき、宇宙って不公平だと感じたり、天に文句を言いたくなることって…。

それは、もしかしたら、あなたが心に罪悪感や、償っていない課題があるからなのかもしれません。

ちょっとした嘘や不親切。
気が進まなくてやれなかった、やるべきこと。
悪気もなくやってしまったこと…。

多くの罪悪感は記憶の澱となり、心の奥底に沈んでしまっているのです。それをわざわざかき回す気にもなれないのは、無理もありません。

そこで、その心の澱を十字架に見立て、クリスマスの日に聖霊に解放のお手伝いを頼むことにしたのです。せっかくのクリスマスなんですから…。

ワークショップの最終日は、穏やかな晴天。
私たちは、夕陽がしずむ海岸で火を焚き、背負ってしまった様々な咎(とが)を手放すことにしました。

焚き火を囲んだ私たちは、炎に包まれながら燃える十字架を祈るような気持ちで見つめていました。

私たちの一番の咎は、
自分を精一杯愛せなかったこと。
自分を信じ切れなかったことかもしれません…。

このブログの題名の「罪収火」というのは、私が思った造語です。 
火はいろんなものを焼き尽くし灰にして鎮める力をもっていることから、十字架を納めた私たちのために、悔いの心を収めくれることを願って名づけました。

これで、犯してしまった罪や、知らないうちに溜め込んでしまった咎を、どれほど解放することができたのかはわかりません…。ただ、確かに、この時代が変わっていくうねりを感じていたのです。

コロナ禍がはじまってからというもの、世界の混乱は続いているように見えます。

出口が見えないトンネルの中にいるような気持ちになっている人は少なくないでしょう。そんな時期に自分に何ができるのか、どうしたらいいのか、迷い答えが出ない時があります。

そんな時は、ふと外側に答えを探しにいくのはやめよう…と、思うのです。

問題や不安を作り出す種は、どこでもない自分の心の隅にあるからです。
私達は、無意識の中で多くの罪を十字架のように背負ってしまっています。

イエスは、その罪を代わりに背負うから、自分を解放してあげなさいというメッセージを残してくれていたのに…。

もうそろそろ、私たちは怖れを手放し、罪の責任を取り、自分を咎から解放することができる力を思い出す時が来ています。

背負う必要のない十字架を燃やす時、その熱は自分を生かす勇気となるでしょう。

材木座海岸の海に沈む夕陽は大晦日の夕陽の様に美しく、まるで果てのない苦しみの終焉を告げているように見えたのは、私の夢見心地な気のせいだったのかもしれません…。

2022年、ワークショップにたくさんの方々が集まってくださいました。
皆さんが真剣に自分自身と向き合い、取り組んでくれた勇気と希望はいつも私たちの力に変わってくれています。

ありがとうございました。

2023年が、皆さまにとって、そして地球に生きる人々にとって、喜びと成長の年になりますように…。

深い感謝と愛をこめて

吉田エリ