ビルケナウとの対話-ゲルハルト・リヒター展にて

あなたは、絵画のバイブレーション(振動)を感じたことがあるだろうか?

20年以上も前のこと。 
パブロピカソの展覧会「ピカソ 子供の世界」展Picasso’s World of Childrenを見に行った時のことは今でも忘れられない体験だ。

幼年期の天才的なピカソの習作に驚かされながら、順路を進むとメインのホールに、スペインの内戦を描いた「ゲルニカ」が展示されていた。

そびえ立つような巨大な壁画の前に立った時、強い風圧を感じ後方へと押し返されてしまった。

ピカソはゲルニカの習作を45枚も制作しており、私もそれらの作品群を画集や展覧会などで何度も目にしていたにも関わらず、初めての体験に驚くしかなかったことを鮮明に思い出す。

ゲルニカの戦場は21世紀の現代に生きていたのだ。
母国を愛するピカソの怒りのエネルギーは時空を超えて、作品に転写されているようだった。

絵を見てそんな衝撃を受けたのは初めてのことだった。

あれから20年以上の歳月がたった今年の夏の終わり。
私は国立近代美術館で開かれていたゲルハルト・リヒターの展覧会に出かけた。
今年90歳になろうとしている現代アートの巨匠は、生存する画家の作品としては史上最高額で取引されたことで有名だ。
だが、そんな勲章など見向きもしないようにリヒターは次のように語る。
「美術界全体は、つまらなさと嘘、虚偽、堕落、卑劣、愚劣、無意味、厚顔無恥、それらがずらっと垣間見られる広大な場景だ。言葉にする価値すらない」

美術界のみならず、すべての権威主義に反抗するように、彼は作品に語らせるように活動を続けてきた。

そんな真摯な作家の生き方に感銘を受けながらも、個人的にはリヒターの数奇な運命に翻弄された画家というイメージに興味を持った。
日本初公開となるホロコーストをテーマに描いた「ビルケナウ」の実物が体験できると知り、時間をやりくりし東京に出かけた。

太平洋戦争が激化する頃、幼かったリヒターは、アーティストだった最愛の叔母から影響を受け絵を描くようになったという。 
しかし悲劇的にも、彼の叔母はゲシュタポの支配下にあった医師の手により、精神を病み命を落としてしまう。その後、成人したリヒターは何も知らず、その医師の娘と恋に落ちて結婚することになるのだった。

リヒターの作品のスタイルにフォトペインティングという技法の作品があるが、展覧会では若き日の妻を描いた作品も展示されていた。

注目の「ビルケナウ」の作品名の由来とは、アウシュヴィッツ強制収容所3ヵ所のうち、最大級の犠牲者を出した強制収容所のあったブジェジンカ村(ドイツ語名:ビルケナウ)のことである。
リヒターは、同収容所で密かに撮影された写真のイメージ上に絵具を重ね、4点からなる巨大な抽象画《ビルケナウ》(2014)を完成させた。

なぜ、彼はこれほどまでに歴史に拘ったのだろう?
ドイツ人だったリヒター自身は収容所に捕らわれた体験はないのだが、当時を生きた人々のすべては、戦争の犠牲者であり、当時の集合無意識は深刻なトラウマを受けたに違いない。

その恐怖と苦しみ、戦争という不条理に対し、リヒターは武器を持たず、ペンではなく絵筆に託したのかもしれない。

混み合う会場で私は、色とりどりのフォトペインティングやアブストラクト・ペインティングの作品群の中に目的の作品を探した。

ビルケナウは、(拍子抜けするぐらい)狭苦しい空間に閉じ込められるようにひっそりと並んでいた。
鏡の作品に映り込むようにビルケナウの連作が見えた。

ようやく、その前に立った時だった。

ゲルニカと出会った時と同じような強烈な振動とも思える圧を感じたのである。 

熱い温度や音。
数枚並んだビルケナウ作品の一つが、雄弁に語りかけて来た。

私は、突然の衝撃に心臓が高鳴り怖くなった。
それはまるで収容所に閉じ込められた霊の叫びのようだったからだ。
展示されていた他の作品には感じなかった不思議な感覚なのだ。

リヒターは、現地を撮影した写真の中に閉じ込められた霊達の恐怖を鎮魂するようにこの作品を絵描いたのだろうか…。
どんな説明も不要だと云わんばかりに、ビルケナウは無言の声を放っていた。

あらためて、アートリテラシーのことを思い出した。
表現アートセラピーの講座で、アートリテラシーについて話す時、いつも私は伝えている。

絵画を解釈しないでください…と。

アートとは生きている魂そのものです。
それを理解しようとしないで、心の手触れて、感じ、耳を澄ませてください。
彼らは雄弁に語りかけてくるはずだから…。

その温度や振動は、かならずあなたの魂を揺さぶるだろう。

ゲルハルト・リヒター展
東京国立近代美術館にて10月2日まで
豊田市美術館にて10月15日より2023年1月29日まで