東京都現代美術館MOTで開かれている美術家、川俣正の「通路」展に行ってきました。川俣氏は、若手の現代アーティストで横浜トリエンナーレの総合ディレクターを務めたり、ヴェネツィア・ビエンナーレの参加アーティストに選ばれる国際的な活躍で知られていますが、私が彼の存在を知ったのは、フィルムアート社で出版している「アートレス」という本を読んでからでした。
彼の活動は、美術だけにとどまらず、建築や都市計画、歴史や社会学、そして、日常的なコミュニケーションなど、多岐にわたります。現代アートというと、あまり芸術に親しみのない人にとっては、無縁の分野のような印象がありますが、今回のテーマ「通路」という、作品というよりも、そのコンセプトにふれる作品郡に触れ、あらたな思いをいだきました。
そして、今回、駅から1キロ近く歩く、私としてはあまり積極的に訪れたくない現代美術館へと足を向かわせた理由の一つは、「アートレス」の編集や、「セルフエジュケーション時代」という川俣氏の一連の本の編集に携わったフィルムアート社編集長(前)の津田さんが主催する講座に参加したいという目的があったからでした。
講座の中で津田さんが、その編集のプロセスや、川俣氏と関わった中から生まれた社会とコミュニケーションを交わすアートという視点について詳しく(それこそ、ボディワークまで使って!)説明してくれたことで、私なりに川俣正という、アーティストの本質的な在り方について納得し、自分の中に留めておく引き出しを見つけることが出来ました。
そもそも人間の本質的な在り方や、アートの意味など、とうてい解るわけはないのですが、その人や、作品に触れたときに自分の中にある何かが呼応するのを気づき、その感触を楽しめばいいのだと、私なりに受け止めています。
津田さんとは、アートリテラシーの講座でお世話になったり、いろんなことを教えていただいたりしていますが、アートリテラシーは、作品と向き合う鑑賞者の素朴な感覚やまなざしを拾っていく作業だということをこの講座でまた再確認することが出来ました。
作品展が終わってから、またぼんやりと「通路」という川俣氏のコンセプトを考えていると、なんだか面白い気持ちになりました。
以前、川俣氏はオランダで大々的なアートプロジェクトを展開したことがありましたが、これに参加者したのはアルコール依存やドラッグの中毒患者たちでした。オランダの田園風景の中に、川俣氏の設計した通路(木道)を延々と巡らせていくこの作業は一見、行動療法や作業療法を連想させることから、これは、アートセラピーなのか?という問いかけに、川俣氏がそういうくくりで捉えていない、というふうに応えていたことが印象的でした。
それでは、果たして、彼は療法としてアートを捉えていなかったのでしょうか? 私が想像したのは、アートがセラピーであっても、ただの作業であっても、それは関わる人にとってあまり問題ではないということでした。
ただ、作業のあとに、沸いてくる感覚があるだけです。もちろん、どんな関わり方をするかによって、感じる感覚にも変化はあるとは思いますが、少なくても川俣氏はそれを提供することに十分な意味があったのではないか?と想像します。
そしてその後、彼の通路というコンセプトが妙に私の中に響きつづけました。
先日定期講座が終了したときのお話を書いたとき、私は自分の仕事について、ガソリンスタンドという表現をしましたが、ガソリンスタンドはエネルギーを供給するわけですから、それも何かおこがましく、それなら「通路」はとてもしっくりくるスペースだと感じたのです。通路とは、何かと何かの狭間にあり、その場所を通って何処かに辿り着く要素をもっています。広場から広場へ。出発点から目的地へ。
そしてこんな風にも思いを巡らしました。(妄想の域を出ませんが・・)
チベットでは宗派を問わず「死者の書」と言う教典を臨終を向かえた人の枕元で僧が読むという習慣があります。この習慣がどれくらい現代で残っているかは解りませんが、この書の中で、生から死への通り道のことをバルド呼ばれています。
通路という響きにはこのバルドのイメージが重なってくるのです。
私はそれから夢のワークの時に誘導瞑想を語りながら、自分自身でもヴィジョンを受け取っていました。
それは、「通路になりなさい。そこに人を留めておかないように」という内容でした。意味は深くは解りませんが、今年のコンセプトは「通路」なのかも?と一人ブームにひたっています。
こんなこと、川俣さん聞いたらどう感じるでしょうね。でも、きっと彼の人柄なら、「ああ、そんな通路あってもいいんじゃないですか」と云いそうなんですが、私の勝手な思いこみですけれど・・。