我慢している人は、我慢をすることを望んでいる。
我慢をするのが好き、というわけではないが、我慢しないと起るかもしれない困った状況を体験するより、我慢するほうがましだと思い込む。そんな人にとって、我慢は美徳となっている。
疑う人は、疑うことが心地良い。
疑いは、裏切りや欺されることから自分を守ってくれる防御壁となっている。
疑いは安心を授けてくれる保険のようなものだ。
不安は最悪な出来事が起こった時の緩衝材となっている。
最悪な事が起こっても、準備しておけば、不意を突かれるよりもショックは少ない。
つまり、ショックを避けるために不安や怖れを使っているのだが、不安というネガティブな波動が同じネガティブな出来事を引き寄せてしまっている不具合には気づかない。
「嫌い」は「好き」の裏返しというが、ある意味当たっている。
嫌いなら、そんな人のことを忘れればいいのに、気づくと嫌な人のことが頭から離れない。まるで恋人のことを考えるように。嫌いなものへの抵抗は、対象と自分と密着させている。
そんなことは気持悪いが、気づいてもそれをやめることができない。そんなことをしたら、相手と自分が融合してしまような気がするからだ。
人は無意識に潜む矛盾や不調和に気づきたくはない。
だから、そのゴミを外側に掃き捨てるのである。
忘却や抑圧という手段を使って…。
忘れてしまえば、捨ててしまった罪の意識から逃れられるので好都合だ。捨てたのは、誰か知らない人だから自分の罪ではない…と、しらばくれる。
しかし、まずいことに自分の家から放り出したゴミは、ご近所の誰かの目に留まってしまうのだ。
「あなたのゴミでしょう? 自分で処理してくださいよ」
「嫌な奴!」…そうあなたは思うだろう。
この近所の人がシャドウである。
シャドウは闇の世界の住人のようである。
日陰の身でありながら、日の目を見ようともがいているのだ。
シャドウは、間違いなく歓迎できない客のように見える。
誰でも、シャドウと関わるのはごめんだと思うに違いない。
しかし、もしもあなたが人生に100%満足していないとしたら、
その不足とは、あなたが受け入れたくない自分のかけら(シャドー)を切り捨ててしまっていることにほかならない。
あなたが知らずに捨てたゴミは、大切なパズルのピースだった。
誰かを毛嫌いし、恨み続けたいと思うだろうか?
もちろん、そんなことをしたい人はいないが、そんな彼らが自分の一部だと気づくリスクは計り知れない。だから、永遠に葬り去りたいと願うのだ。
しかし、皮肉なことに自分の本質はすべての統合を望んでいる。
しかも、決して諦めないしつこさで…。 笑
だから、もう降参して認めてしまう。
「はい、そのゴミ 私が捨てました!」って…。
あ、ゴミじゃなくて、大切なピースだったっけ…。
それにしても、相手は手強い。
ゴミだと受け入れ難いなら、見てくれ良く変身して現れる。
あなたが恋い焦がれる魅力を備えて…。
つづく
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